『ごまかさない仏教 仏・法・僧から問い直す』 仏教の敷居の低さ
2018.01.18 00:45|宗教|
仏教学者の佐々木閑氏と『宮崎哲弥 仏教教理問答』などの宮崎哲弥氏の対談本。

対談の最初に宮崎氏が佐々木氏問いかけるのは、仏教が無条件に受容しなければならない前提が極めて少ないのではないかということです。たとえばキリスト教ではイエスの復活というものを信じなければならないわけですが、仏教(特に初期の仏教において)にはそうした神秘的なものがほとんどありません。佐々木氏はその問いかけに対して、仏・法・僧という三つの要素を受け入れろというのが仏教であり、超自然的な要素はほとんどないと応じています。
対談相手の佐々木閑氏のことは知らなかったのですが、『科学するブッダ 犀の角たち』という本も一緒に読んでみました。元々は理系の出身で科学者に対して憧れを抱く仏教学者という変わった経歴の方のようです。『犀の角たち』では全体の7割くらいは科学の話をしています。そして大きなスケールから見た科学と仏教の共通点を探っています。
佐々木氏によれば仏教が宗教であるのは、悟りのプロセスのレベルアップについての理論的説明がなかったために、釈迦の言うことを信じてついてこいという形にならざるを得なかったという点にあるとのこと。今はまだ無理だとしても、将来的には脳科学などで悟りについての科学的な説明ができるようになれば、仏教は「完全に科学的な自己改良システムに変貌する」という希望的観測を語っています。科学が多大なる進歩を遂げた今こそ仏教が受け入れやすくなるということなのかもしれません。
今回の『ごまかさない仏教』に戻れば、ふたりの仏教者が論じることは多岐に渡りますが、入門書と言いながらもかなり細かい部分まで突っ込んでいきます。この本が“ごまかさない仏教”と銘打たれているのは、ほかの宗教では死後において救われるといったフィクションが入ってくることになるわけですが、仏教はそうした嘘がほとんどないからでしょう。
釈迦はエゴイストだと佐々木氏は言います。このあたりにもごまかしはありません。釈迦もまた自分の苦しみを取り除くことを目指して修行していたわけですから。サンガや托鉢というシステムも自分たちが心置きなく修行するためとのことです。ただしその後の梵天勧請によって釈迦は自らの悟りを衆生に説くことを決意します。この転回がなければ今に伝わる仏教の教えはなかったことにもなるわけです。
梵天勧請に関して宮崎氏はこんなことを語っています。
宮崎氏はこれを「大乗に偏向した解釈」としていますが、こうした考えから菩薩のような存在が導き出されそうにも思えます。ふたりの立場は違うようですが、共に仏教者として、仏教の教えに対する信頼では一致していて、それがひしひしと感じられる本となっているのではないかと思います。

【その他、最近読んで印象的だった本】
宮崎駿、富野由悠季、押井守などを論じた本。アニメには詳しくないのでその論評が正しいのか否かはよくわかりませんが、著者は幅広いジャンルの本や映画に目を配っていて感心させられ、色々と参考にもなるかと思います。
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対談の最初に宮崎氏が佐々木氏問いかけるのは、仏教が無条件に受容しなければならない前提が極めて少ないのではないかということです。たとえばキリスト教ではイエスの復活というものを信じなければならないわけですが、仏教(特に初期の仏教において)にはそうした神秘的なものがほとんどありません。佐々木氏はその問いかけに対して、仏・法・僧という三つの要素を受け入れろというのが仏教であり、超自然的な要素はほとんどないと応じています。
対談相手の佐々木閑氏のことは知らなかったのですが、『科学するブッダ 犀の角たち』という本も一緒に読んでみました。元々は理系の出身で科学者に対して憧れを抱く仏教学者という変わった経歴の方のようです。『犀の角たち』では全体の7割くらいは科学の話をしています。そして大きなスケールから見た科学と仏教の共通点を探っています。
佐々木氏によれば仏教が宗教であるのは、悟りのプロセスのレベルアップについての理論的説明がなかったために、釈迦の言うことを信じてついてこいという形にならざるを得なかったという点にあるとのこと。今はまだ無理だとしても、将来的には脳科学などで悟りについての科学的な説明ができるようになれば、仏教は「完全に科学的な自己改良システムに変貌する」という希望的観測を語っています。科学が多大なる進歩を遂げた今こそ仏教が受け入れやすくなるということなのかもしれません。
今回の『ごまかさない仏教』に戻れば、ふたりの仏教者が論じることは多岐に渡りますが、入門書と言いながらもかなり細かい部分まで突っ込んでいきます。この本が“ごまかさない仏教”と銘打たれているのは、ほかの宗教では死後において救われるといったフィクションが入ってくることになるわけですが、仏教はそうした嘘がほとんどないからでしょう。
釈迦はエゴイストだと佐々木氏は言います。このあたりにもごまかしはありません。釈迦もまた自分の苦しみを取り除くことを目指して修行していたわけですから。サンガや托鉢というシステムも自分たちが心置きなく修行するためとのことです。ただしその後の梵天勧請によって釈迦は自らの悟りを衆生に説くことを決意します。この転回がなければ今に伝わる仏教の教えはなかったことにもなるわけです。
梵天勧請に関して宮崎氏はこんなことを語っています。
この縁起説(引用者注:一切法因縁生の縁起)を前提とするならば、本当に成仏を得道し、悟りを完成するのは、「自己」においてではならぬはずなのです。論理的に。悟りは個では完結できない。なぜなら、その自己は、その個は「様々なる条件によって条件づけられて」仮に存立しているものに過ぎず、他者との関係性において仮に「ある」かのようにみえるものだから。その真相を知見することこそが悟道であるのだから。
「この私」という存在が他を前提とし、他との関係において生じるものである以上、悟りが訪れ、住するのは自己とか他者とかの個ではなく、世界でなければならない。そうして自も他も、世界も終わらせることができる。(p.97)
宮崎氏はこれを「大乗に偏向した解釈」としていますが、こうした考えから菩薩のような存在が導き出されそうにも思えます。ふたりの立場は違うようですが、共に仏教者として、仏教の教えに対する信頼では一致していて、それがひしひしと感じられる本となっているのではないかと思います。
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【その他、最近読んで印象的だった本】
宮崎駿、富野由悠季、押井守などを論じた本。アニメには詳しくないのでその論評が正しいのか否かはよくわかりませんが、著者は幅広いジャンルの本や映画に目を配っていて感心させられ、色々と参考にもなるかと思います。
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