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ラヴジョイ 『存在の大いなる連鎖』 2000年にわたる観念の歴史

2013.08.23 22:08|哲学
 原著は1936年に出されたもの。日本では1975年に晶文社から翻訳が出ていましたが、今回、ちくま学芸文庫として新訳で登場しました。
 この『存在の大いなる連鎖』で扱われているのは観念史(history of ideas)と言われるものであり、これに関しては松岡正剛の千夜千冊(637夜)に詳しく解説されています。

存在の大いなる連鎖 (ちくま学芸文庫)


 その観念史のなかでも、この本でアーサー・0.ラヴジョイが取り上げるのは「存在の大いなる連鎖」という観念についてです。これは、たとえば18世紀の詩人アレクサンダー・ポープ『人間論』のなかの次のような文章に表れています。

存在の巨大なる連鎖よ、神より始まり、
霊妙なる性質、人間的性質、天使、人間、
けだもの、鳥、魚、虫、目に見えぬもの、
目がねも及ばぬもの、無限より汝へ、
汝より無に至る。より秀れしものに我等が
迫る以上、劣れるものは我等にせまる。
さもなくば、創られし宇宙に空虚が生じ、
一段破れ、大いなる存在の階段は崩れ落ちよう。
自然の鎖より輪を一つ打ち落とせば、
十分の一、千分の一の輪にかかわらず
鎖もこわれ落ちよう。(p.91)


 「全西洋の哲学はプラトンの脚注にすぎない」という言葉が引用されていますが、この「存在の大いなる連鎖」という観念もプラトンに淵源があるとされます。僕は哲学に詳しいわけではないので、本文だけで500ページを超えるこの本を完全に把握しているわけではありませんが、上記のような考えもネオ・プラトニズムの「流出説」を考えればイメージが沸くような気がします。
 この「存在の大いなる連鎖」という観念は、「充満の原理」「連続の原理」というものに支えられています。「充満の原理」とは、「宇宙は生き物の考えられる種の多様性の範囲が極めつくされた、種の充満したもの」であり、「存在の真の可能性は実現されずにはいない」というようなことです。「連続の原理」とは、そんな多様な種が非存在すれすれの極めて乏しい存在物から始まり、存在そのものである絶対者(神)までが、階層的秩序に配列された鎖のように連なっているということです。連続とは、絶対者と被造物である人間の間に天使が存在するように、植物なのか動物なのかよくわからない植虫類(イソギンチャクなど)が存在するように、階梯の上のものと下のものは「可能な限り小さい」程度の相違によってへだてられているということなのです。
 ラヴジョイはこのような「存在の大いなる連鎖」の観念史を追っていきます。第3章「存在の連鎖と中世思想における内的対立」では、中世キリスト教圏でのその観念の受け止められ方について検討します。第5章「ライプニッツとスピノーザにおける充満と充分理由について」では、「充満の原理」と「連続の原理」が説得力の多くを仰いでいた「充分理由の原理」について記されます。

 〔現実における〕存在という事実が本質の世界に在る必然性であるとどこかで示し得なければ、二つの世界は奇妙に無関係であり、両者を結ぶ橋はなく、存在物の全領域は不条理に引き渡されるように思われた。このようなことが十七、八世紀の哲学の争点であり、ライプニッツの充分理由の原理はいくつかの答の中の一つであった。(p.229)


 また、「存在の大いなる連鎖」という観念は非時間的なものだったわけですが、第9講「存在の連鎖の時間化」では、それが生物進化など考えに合わせて時間化していく過程が追われます。
 第10章及び最後の第11章では、「ロマン主義」が扱われます。ちなみに僕がラヴジョイという名前を知ったのは、アイザイア・バーリンのロマン主義に関する論文(「西欧におけるユートピア思想の衰頽」)を読んだときでした。ここではロマン主義に関する定義にまで踏み込むことはできませんが、「ラヴジョイは「ロマン主義」の多様性に直面して絶望に近い状態に陥った」などとバーリンは記しています。この論文のなかでバーリンは「啓蒙主義」に対する反動として「ロマン主義」を論じていますが、ラヴジョイのこの本でも「ロマン主義」は「存在の大いなる連鎖」をひっくり返すものとして論じられます。

 このようにして、遂に、プラトン主義的な宇宙の構造はさかさまにされた。始めから完全で不動である存在の連鎖は、その中ですべての真の可能物が徐々に、しかし時間の中で巨大で緩慢な展開を通じてのみ実現される運命を持った「生成」に変換されてしまったのみならず、今や神自身がこの「生成」の中に置かれたり、これと同一視されている。(p.513)


 これは、現実の宇宙の実情に合っているという意味で、プラトンの説いたイデアのような「あの世的」な観念が「この世的」な観念へと移行したとも言えるわけですが、同時に、プラトン以来この宇宙に対する合理的な説明を求めてきた営みが敗れ去ったということでもあります。

 故に具体的に存在する宇宙は、本質の領域を公平に転写したものではない。そしてそれは純粋な論理を時間的条件に翻訳したものでもない。そのような条件自体が純粋な論理の否定なのであるから。宇宙は、今持つような性格、内容と多様性の範をたまたま持っているに過ぎない。どのような根拠も宇宙がいかなる種類であるべきか、可能性の宇宙のどの程度がこの宇宙の中に含まれるべきか永遠の昔より前以て決定してはいない。宇宙は偶然的な宇宙である。(p.522)


 古代ギリシャから18世紀におよぶ約2000年の観念史は、僕にとっては戦国武将たちの戦の行方などよりエキサイティングでした。そして、何より読み応えがあります。文庫で1700円も高くはないと思います。
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