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ナボコフ 『ナボコフのロシア文学講義』 トルストイの時間操作

2013.09.18 23:32|文学
 ウラジーミル・ナボコフがアメリカの大学で行った講義をまとめたもの。ゴーゴリ、ツルゲーネフ、ドストエフスキー、トルストイ、チェーホフなどの作品が取り上げられますが、何と言ってもトルストイ『アンナ・カレーニナ』を論じた部分に力が入っています(ナボコフの言い方では「アンナ・カレーニン」となるようですが)。

ナボコフのロシア文学講義 上 (河出文庫)


ナボコフのロシア文学講義 下 (河出文庫)


 ナボコフはトルストイを「ロシア最大の散文小説作家」としています(次がゴーゴリで、チェーホフ、ツルゲーネフと続き、ドストエフスキーはそれ以下のようです)。ナボコフは自ら「不滅の」と形容する『アンナ・カレーニナ』について、以下のようにまとめています。

 社会の掟は仮初であって、トルストイの関心は永遠の道徳的要請というところにあった。ここでトルストイが伝えようとする本当の教訓の要点が明らかになる。すなわち、愛がもっぱら肉体的愛であるということはあり得ない。なぜならその場合、愛は利己的であり、利己的であることによって、愛は何かを創造する代りに破壊するのだ。従って、そのような愛は罪深い。そしてこの要点を芸術的にできるだけ明瞭に示すため、トルストイは驚くべき形象の流れのなかで、二つの愛を描き分け、生き生きとしたコントラストをつけて並べてみせた。 (下巻 p.30)


 二つの愛とは肉体的愛(ヴロンスキー―アンナ)と真正のキリスト教的愛(リョーヴィン―キティ)ということになるわけです。しかし、こうした整理はナボコフにとってさほど重要ではないようで、ナボコフは作品をたくさん引用して、それにひとつずつ注釈を加えるようにして細部を読んでいきます。
 

 あたりはすっかり暗くなっていた。彼が眺めている南の空にも、もう雨雲はなかった。雨雲は反対側に群がっていた。そちらの方からはときどき稲妻がひらめき、遠雷が聞こえた。リョーヴィンは、庭の菩提樹から規則正しく落ちる雫の音に耳を傾けながら、馴染み深い三角形の星座と、そのまんなかを通っている銀河とその多くの支流を眺めていた。〔ここで一つの喜ばしい比喩が現れる。愛と洞察力に満ちた比喩である。〕稲妻がひらめくたびに、銀河ばかりか、明るい星までが見えなくなるが、稲妻が消えると、まるで狙い誤たぬ手に投げ返されでもしたように、また元の場所に現れるのだった〔この喜ばしい比喩がお分かりだろうか〕。 (下巻 p.70~71)


 〔 〕内につぶやかれているのがナボコフの注釈です。この本はロシア文学に詳しくはないアメリカの学生に向けての講義を元にしていますから引用も多く、より丁寧にナボコフとともに作品を読み返すような感覚を覚えます。

 ナボコフは二重の悪夢(アンナたちが見る同じ夢)という主題や、トルストイの比喩表現などについて詳細に説明を加えていきますが、特にトルストイの時間感覚に魅せられています。「私たちの時間感覚に正確に対応するような時間的価値を自分の作品に与えることができるという、トルストイの天賦の才能」(下巻 p.17)などと褒めちぎっています。また、ナボコフは『アンナ・カレーニナ』を知的に鑑賞するための鍵として、時間に対する配慮ということに注意を促します。たとえば第二編では、ヴロンスキーとアンナが不倫関係へと進む筋と、まだ独身のリョーヴィンと同じく独身のキティの筋が描かれます。ここではヴロンスキー―アンナ組の生活速度が早く、独身のリョーヴィンたちの生活をおいて1年以上も先に進んでしまうというのです。愚鈍な読者である僕はまったく気がつきませんでしたが、ナボコフはこうした部分に注目し「これはこの小説の構造上、非常に魅力的なところである――相手を持つ存在は相手を持たぬ存在よりも素早いのだ。」(下巻 p.116)と語っています。
 これはナボコフの文学理論がよく表れているところで、ナボコフは「作品のなかの形象の魔力と比べれば、思想など何ほどのものでもない。」(下巻 p.65)ということをくり返し述べています。ナボコフによれば「ドストエフスキーは偉大な真理の探求者であり、精神的疾患を描く天才ではあるけれども」(上巻 p.292)、ナボコフの文学理論に照らせば、思想を語ることに流れがちなドストエフスキーに対する評価は低くなるようです。

 下巻の最後に「翻訳の技術」というナボコフの翻訳論があります。次のようなプーシキンの詩の冒頭が引用されます。

I remember a wonderful moment (私はすばらしい瞬間を憶えている)


 これはロシア語で書かれたものを英語に訳したものですが、元のロシア語から他の言語に翻訳してしまうといかに陳腐な詩になってしまうかということを示しています。本当はこの詩は「ロシア人の耳にはきわめて刺激的かつ鎮静的」(下巻 p.343)らしいのですが。
 これを読むと『アンナ・カレーニナ』のすばらしい部分を、ロシア語を解しない外国人である僕などはあまり理解していないのかもしれません。一方でナボコフの評価が低い、思想に傾きがちなドストエフスキーは、翻訳を経ても伝わりやすい思想を語っているからこそ、日本を含めた諸外国にも多大な影響を与えたとも言えるのかもしれません。
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