橋爪大三郎 『世界は宗教で動いてる』 宗教的知識の整理に
2013.10.30 18:58|宗教|
この『世界は宗教で動いてる』は、橋爪大三郎氏が慶応丸の内シティキャンパスで行った講義をもとにした新書になります。慶応丸の内シティキャンパスというのは社会人の教育機関だそうで、この講義もビジネスマンを中心とした受講生に向けられているようです。「ビジネスマンなら、宗教を学びなさい。」(p.3)と語るように、普段の生活や仕事上で役に立つ宗教の常識を学ぶというコンセプトです。取り立てて難しい内容ではありませんし、宗教的知識を整理するうえでは役に立つのではないでしょうか。

『世界は宗教で動いてる』という題名を見ると、世界全体が何かひとつの宗教というもので動かされているように聞こえなくもないですが、この本はそれぞれの文明ごとにそれぞれの宗教がどのように社会を形成してきたかという点が語られます。
分量的なことを言えば、約半分がキリスト教(第一講義と第二講義)に関してで、残りの半分でイスラム教、ヒンドゥー教、儒教、そして日本の宗教についてです。キリスト教については『ふしぎなキリスト教』で、儒教については『おどろきの中国』ですでに論じられている部分も多いようです。
ここではインドについて述べれば、インドでは少数のアーリア民族がその他の征服された人々を治めるためにカースト制度が生まれます。カースト制度は身分制度ですが、奴隷制とは違うのだそうです。カースト自体は差別的な印象がありますが、インドの輪廻の考えと一緒になると、カーストの上下は輪廻によって入れ替わるものなので、本質的には平等なものと考えられているのだとか。
インドの宗教と言えばヒンドゥー教ですが、この宗教は「由来の異なる信仰がいくつもの束になって集まってできた」(p.161)のだと言います。インドには無数の神がいますが、ある神が化身して神Aになったり神Bになったりします。たとえば、ヴィシュヌ神の第8番目の化身がブッダとされるようにです。
同じユーラシア大陸に存在する中国とインドですが、大澤真幸氏の『群像』での連載「<世界史>の哲学」では、中国では早くから中央集権的な帝国が生まれたのに対し、インドでは権力は限定的な範囲にしか及ばず多元的に分解されていたと指摘されていました。これはヒンドゥー教の「一即多」という考えが影響を与えているのかもしれません。
最後に日本の宗教についてですが、「山川草木悉有仏性」などと言われる自然崇拝は、ほかの宗教と比べるとごく原始的な感もあります。その分創唱宗教よりも違和感なく自然に受け入れられるようにも思いますが、これは僕が日本に生まれ育った日本人だからなのでしょうか?
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第一講義 ヨーロッパ文明とキリスト教
―イエスの父はヨセフか、それとも神か
第二講義 宗教改革とアメリカの行動原理
―ウォール街の“強欲”をどう考えるのか
第三講義 イスラム文明の世界
―イスラム教は平和のための宗教
第四講義 ヒンドゥー教とインド文明
―カーストは本質的に平等
第五講義 中国文明と儒教・仏教
―儒教はなぜ宗教といえるのか
第六講義 日本人と宗教
―カミと人間は対等の関係
『世界は宗教で動いてる』という題名を見ると、世界全体が何かひとつの宗教というもので動かされているように聞こえなくもないですが、この本はそれぞれの文明ごとにそれぞれの宗教がどのように社会を形成してきたかという点が語られます。
分量的なことを言えば、約半分がキリスト教(第一講義と第二講義)に関してで、残りの半分でイスラム教、ヒンドゥー教、儒教、そして日本の宗教についてです。キリスト教については『ふしぎなキリスト教』で、儒教については『おどろきの中国』ですでに論じられている部分も多いようです。
ここではインドについて述べれば、インドでは少数のアーリア民族がその他の征服された人々を治めるためにカースト制度が生まれます。カースト制度は身分制度ですが、奴隷制とは違うのだそうです。カースト自体は差別的な印象がありますが、インドの輪廻の考えと一緒になると、カーストの上下は輪廻によって入れ替わるものなので、本質的には平等なものと考えられているのだとか。
インドの宗教と言えばヒンドゥー教ですが、この宗教は「由来の異なる信仰がいくつもの束になって集まってできた」(p.161)のだと言います。インドには無数の神がいますが、ある神が化身して神Aになったり神Bになったりします。たとえば、ヴィシュヌ神の第8番目の化身がブッダとされるようにです。
ヒンドゥー教を構成するそれぞれのグループには、具体的な信仰(具体的な神)があって、ほかのグループ(神)には関心を持たない。でも互いに、ヒンドゥー教徒だという意識をもつことで、個々の具体的な神を超えた、抽象的な神とともに従うグループだという意識をもつことができる。この抽象的な神は、本来はひとりなのだけれど、あらわれとしては複数になる。これが「一即多」という考え方です。(p.161)
同じユーラシア大陸に存在する中国とインドですが、大澤真幸氏の『群像』での連載「<世界史>の哲学」では、中国では早くから中央集権的な帝国が生まれたのに対し、インドでは権力は限定的な範囲にしか及ばず多元的に分解されていたと指摘されていました。これはヒンドゥー教の「一即多」という考えが影響を与えているのかもしれません。
最後に日本の宗教についてですが、「山川草木悉有仏性」などと言われる自然崇拝は、ほかの宗教と比べるとごく原始的な感もあります。その分創唱宗教よりも違和感なく自然に受け入れられるようにも思いますが、これは僕が日本に生まれ育った日本人だからなのでしょうか?
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