『宮崎哲弥 仏教教理問答』 仏教者としての宮崎哲弥
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問答一 『太陽を曳く馬』をめぐって (高野山密教)
問答二 浄土真宗は仏教か、超仏教か? (浄土真宗)
問答三 問いかけの本源へ (天台宗)
問答四 不死の門をいかに開くか (曹洞宗)
問答五 仏教にとって救済とは何か (浄土宗)
対談相手は同じ仏教とは言え宗派の様々な論客たちです。議論も多岐に渡ります。高村薫の『太陽を曳く馬』について、オウム真理教の問題、浄土宗と浄土真宗の差異、悟りと解脱の違い、往生と成仏、大災害の救済に有効な論理などなど。宮崎氏は聞き役で各宗派の見方を聞きながら、それをダシに自らの仏教観についても語っています。宮崎氏は中観派であり、守備範囲は初期大乗仏教あたりなんだとか。
この本を読むと、テレビの仕事は宮崎氏にとっては仮の姿だったのかとも思えます。宮崎氏はこんなふうに語っています。「私自身は政治や社会に関して積極的に主張したいことはほとんどないのです。ただ、政治や社会全体が特定のイデオロギーや固定観念によってガチガチに統制されて、言いたいことも言えない、息苦しい世の中になるのが嫌なだけ。」(p.82)その一方で、仏教については「生き方の本丸」であるとしています。「仏教者としての生涯の目的は何か」と問われて「悟りに達すること」という真っ直ぐな答えを示して、聴衆のお坊さんたちをどよめかせたなんてエピソードもあります。そんな宮崎氏だからこの対談本は、よくある道徳論にすぎない仏教書とは違って読み応えのある内容になっています。
この本の広範な内容を要約することは無理ですが、例えば「不死」について、宮崎氏はこんなふうに整理します。
ブッダはそれこそ他宗教が想定するような永遠の命が保障された、死のない世界の可能性を示唆したのか。そんなことはありえません。(略)ブッダによって告げ知らされた「不死」の真義とは、この現世において、生死という観念とその観念を支える諸観念を徹底的に、完膚なきまでに解体することで開ける境地のことなのです。(p.141)
また、あとがきにはこんなことも記されています。例えば、輪廻をどう捉えるべきか。
“この現実”も夢幻であり、“この私”も夢幻なのである。そして仏教は輪廻もろとも迷夢をすべて滅却せよ、と信仰者に命じている。然るに少なからぬ論者が、それはブッダ、正覚、阿羅漢、聖者……に達して初めて獲得できる視点なのであって、それ故、覚者ならざる凡夫、聖者ならざる衆生は夢幻を実在として生きる以外にないと説く。だから輪廻も“現実”なのだ、“実在”するのだ、と。
本当にそうだろうか。「師に握拳なし」は本師ブッダの教説の原則である。彼は成道の方法をすべて語った。覚者への道程を正しく語り尽くした。にもかかわらず悟道到達の途次にある仏教者に対しては、転倒した夢を唯一の現実として受け容れよ、などとブッダは説いただろうか。多くの輪廻肯定論者のように、虚妄とわかっていることを批判もせずに、唯々諾々と受け容れて生きよ、と彼は説いたのか。私にはそうは思えない。(p.252)
宮崎氏はこの結論は単純だとしていますが、「それを厳密に論証するには然るべき手続きが必要」だとして、今後、アクチュアルな仏教論を書いていくことを宣言しています。宮崎氏の本は、宮台真司との対談本くらいしか読んだことがないのですが、仏教についての著作とならば俄然興味が沸いてきます。すでに『知的唯仏論』なる対談本も出されているようだし、対談以外の宮崎氏の仏教論も楽しみです。