『桃源郷――中国の楽園思想』 中国における理想郷
2013.11.26 23:03|文学|
著者の川合康三氏は京都大学名誉教授だそうで、漢詩を専門とする方のようです。他の著書には『白楽天――官と隠のはざまで』『杜甫』などがあり、この『桃源郷――中国の楽園思想』でも多くの詩が引用され解説されます。
中国という国は儒教の影響が強いためか、現実的な考え方をすることが多いようです。だから桃源郷のようなユートピア思想は珍しいものなのだとか。それでも現実とは違う世界を求める願望はもちろん中国にもあって、著者の整理によれば、それは「仙人の住む世界(仙界)」と「隠逸」の二つになります。
神仙思想は仙人になって不老長生を得たいと願うことです。これは明らかに非現実的なものです。また、隠逸とは公的な場所から身を引いて、思うがままに暮らすことです。これはある意味では現実的ですが、経済的にそれを実現することが出来る人は限られています。ちなみに日本では隠者と言えば肉親とも縁を切って、出家して一人で生きる姿を考えますが、中国では家族が社会の最小単位だから一族郎党を引き連れて山に移ったのだとか。
そんな非現実的な仙人の世界とは別に、楽園というものが古代から考えられてきました。たとえば「華胥氏の国」「建徳の国」などの楽園が知られています。そして楽園思想のなかで最も有名なのが桃源郷です。これは陶淵明の「桃花源記」に初めて描かれたもので、中国では桃源郷ではなく「桃花源」と呼ばれています。「一面に桃の花咲き乱れる地」という表現は幻想的な世界ですが、実際の「桃花源記」に描かれている世界は意外に普通の村とも言えます。
「桃花源記」の主人公である漁師は川を遡っていき、桃花源に辿り着きます。川を遡ることが過去に遡ることの象徴であるというのは、様々な文学に見られます。著者が指摘しているコンラッド『闇の奥』であるとか、カルペンティエル『失われた足跡』などもそうでしょう。辿り着いた桃花源の人々は数百年前、世の中の混乱から逃げてきた人たちの末裔であり、外部との接触を避けて昔ながらの生活を保っています。人々の服装などでは違いが見られ、税金がないとか身分の差がないようですが、ごく普通の平穏な村に過ぎません。理想郷が過去に見出だされるのは、『ユートピアだより』と同様です(皆が楽しそうに農作業を営む姿もそれを想起させます)。
「桃花源記」は陶淵明の時代に書かれた志怪小説とも似ています。志怪小説とは「超自然なできごとをあらすじだけ、物語としてのふくらみもないまま記録したもの」です。その時代の中国では、都がそれまでとは風土の異なる南方に移り、別の世界を知ることになりました。ユートピア文学が大航海時代に盛んになったように、新たな世界を知った中国でも不思議な世界を訪れる志怪小説が生まれたということです。
「桃花源記」もそうした土壌のうえに生まれたものですが、志怪小説が描く「超現実に入る一歩手前で踏みとどまっている」と著者は言います。桃花源は不思議な世界ではあるけれど、あり得ない事柄は書かれていないからです。
また、著者は桃源郷を仙界とは異なるものとして注意を促しています。仙界は異界であり、仙界から戻ってきた人が現世との時間的差異を知るというのは、日本でも浦島太郎などに見られます(たちまち白髪のお爺さんというやつです)。しかし桃源郷の世界にはそうしたタイムラグはありません。桃源郷は異界ではなく、この世のどこかに想定されているわけで、陶淵明が描いていたのは「彼の夢想する楽園」なのです。陶淵明が求めたのは、志怪小説が描く不思議な世界や、仙人の住む異界のあり方ではありません。それよりも桃源郷に住む人々の喜びに満ちた姿こそが主題であり、陶淵明の卓越した表現によってそれが文学足りえたからこそ、桃源郷が楽園の代名詞として受け止められるようになったというわけです。
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神仙思想は仙人になって不老長生を得たいと願うことです。これは明らかに非現実的なものです。また、隠逸とは公的な場所から身を引いて、思うがままに暮らすことです。これはある意味では現実的ですが、経済的にそれを実現することが出来る人は限られています。ちなみに日本では隠者と言えば肉親とも縁を切って、出家して一人で生きる姿を考えますが、中国では家族が社会の最小単位だから一族郎党を引き連れて山に移ったのだとか。
そんな非現実的な仙人の世界とは別に、楽園というものが古代から考えられてきました。たとえば「華胥氏の国」「建徳の国」などの楽園が知られています。そして楽園思想のなかで最も有名なのが桃源郷です。これは陶淵明の「桃花源記」に初めて描かれたもので、中国では桃源郷ではなく「桃花源」と呼ばれています。「一面に桃の花咲き乱れる地」という表現は幻想的な世界ですが、実際の「桃花源記」に描かれている世界は意外に普通の村とも言えます。
「桃花源記」の主人公である漁師は川を遡っていき、桃花源に辿り着きます。川を遡ることが過去に遡ることの象徴であるというのは、様々な文学に見られます。著者が指摘しているコンラッド『闇の奥』であるとか、カルペンティエル『失われた足跡』などもそうでしょう。辿り着いた桃花源の人々は数百年前、世の中の混乱から逃げてきた人たちの末裔であり、外部との接触を避けて昔ながらの生活を保っています。人々の服装などでは違いが見られ、税金がないとか身分の差がないようですが、ごく普通の平穏な村に過ぎません。理想郷が過去に見出だされるのは、『ユートピアだより』と同様です(皆が楽しそうに農作業を営む姿もそれを想起させます)。
「桃花源記」は陶淵明の時代に書かれた志怪小説とも似ています。志怪小説とは「超自然なできごとをあらすじだけ、物語としてのふくらみもないまま記録したもの」です。その時代の中国では、都がそれまでとは風土の異なる南方に移り、別の世界を知ることになりました。ユートピア文学が大航海時代に盛んになったように、新たな世界を知った中国でも不思議な世界を訪れる志怪小説が生まれたということです。
「桃花源記」もそうした土壌のうえに生まれたものですが、志怪小説が描く「超現実に入る一歩手前で踏みとどまっている」と著者は言います。桃花源は不思議な世界ではあるけれど、あり得ない事柄は書かれていないからです。
また、著者は桃源郷を仙界とは異なるものとして注意を促しています。仙界は異界であり、仙界から戻ってきた人が現世との時間的差異を知るというのは、日本でも浦島太郎などに見られます(たちまち白髪のお爺さんというやつです)。しかし桃源郷の世界にはそうしたタイムラグはありません。桃源郷は異界ではなく、この世のどこかに想定されているわけで、陶淵明が描いていたのは「彼の夢想する楽園」なのです。陶淵明が求めたのは、志怪小説が描く不思議な世界や、仙人の住む異界のあり方ではありません。それよりも桃源郷に住む人々の喜びに満ちた姿こそが主題であり、陶淵明の卓越した表現によってそれが文学足りえたからこそ、桃源郷が楽園の代名詞として受け止められるようになったというわけです。
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