『ゆかいな仏教』 橋爪×大澤の宗教対談第2弾
2014.01.31 19:50|宗教|
『ふしぎなキリスト教』の橋爪大三郎氏と大澤真幸氏が再び取り組んだ対談本。今回の対象は、題名の示すとおり仏教です。「ゆかい」かどうかは疑問ですが……。
この本でも『ふしぎなキリスト教』と同様に大澤氏が質問を発し、橋爪氏が答える形で対談は進みます。仏教をネタにした対談ですが、仏教の概説的な本ではないようです。橋爪氏は『仏教の言説戦略』という本も執筆していますが、独特な仏教理解を展開しているようです。
橋爪氏は上記の本では、仏教とは「悟りを訊ねあうゲーム」だとして論を進めていきます。この『ゆかいな仏教』でも、仏教の悟り(覚り)は、言葉では説明することができないものだから、「仏教にはドグマはない」と言い切っています。加えて「仏教の信仰の核心は、メッセージとして伝わらなくても、≪ブッダ(ゴータマその人)は、覚ったに違いない≫と確信すること。その確信がすべてなのです。」(p.30)とも語っています。
『世界は宗教で動いてる』などの著作もある比較宗教学の専門家でもある橋爪氏は、ほかの宗教についても詳しいわけで、そうした見地から仏教の枝葉末節の部分を切り落とせば、そういう結論になるのかもしれませんが……。とにかく橋爪氏が考える仏教のエッセンスが示された本です。
一方で大澤氏は、西洋哲学やキリスト教と仏教を比較してみようとします。たとえばアイザイア・バーリンの自由論について。バーリンは自由をふたつに分類しました。積極的自由と消極的自由です。消極的自由とは「他人に邪魔されていない状態」であり、積極的自由とは「自分が自分をきちんと制御できている状態」のことを言います。これだけを見ると積極的自由がいいものと思えますが、バーリンが憂慮しているのは、積極的自由にはファシズムやスターリニズムが入り込んでくるような余地があるということです。自由があってもそれを何に振り向けるかという点は、非常に難しい問題だからです。革命政党などは人民が何を欲望するべきか、何を目指すべきかを知っていると標榜します。そうなるとかえって自由が抑圧されることがあり得るということになります(だからバーリンは消極的自由に留まるべきだとしました)。
大澤氏曰く、バーリンは仏教のような「内なる砦への撤退」を積極的自由派として捉えました。仏教は煩悩(欲望)を取り除くことを主張します。「すべての欲望を無化することができたとしたら、欲望にまったく翻弄されていない状態が実現したことになります。それは、定義上、積極的自由が実現したことになる。これが仏教版の積極的自由です。」(p.125)これは本当に自由なのか、と大澤氏は問います。ここでは覚り(=積極的自由)というものを得たとして、それが果たして有効なものなのかということが問われています。
おそらく煩悩が消えたときがそのまま覚りとなるわけではないのでしょうが、煩悩が消えた先に覚りというものがあるのでしょう。そんな覚りを体験し、そのあと元の自分に戻ることの重要性を橋爪氏は語ります。覚りは一瞬だと言います。そこに留まることはできません。そこから必ず現実の世界に戻ってくることになります。それでも覚りを体験したあとは元の世界が違って見えてきます。そうすると現実の問題にも、かつてとは違った具体的な解決策が出てくるのだと言います。
ゴータマも35歳で覚りを得て、80歳まで説法を続けながら生き続けました。覚りはそれだけでこの上ない救いになるとされます。それでもやはり元の場所に戻り、具体的に現実的問題に対処することが重要視されているのです。アマゾンのレビューを読むと色々と批判も多い本ですが、このあたりの議論は非常に真っ当なものだと思えます。
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橋爪氏は上記の本では、仏教とは「悟りを訊ねあうゲーム」だとして論を進めていきます。この『ゆかいな仏教』でも、仏教の悟り(覚り)は、言葉では説明することができないものだから、「仏教にはドグマはない」と言い切っています。加えて「仏教の信仰の核心は、メッセージとして伝わらなくても、≪ブッダ(ゴータマその人)は、覚ったに違いない≫と確信すること。その確信がすべてなのです。」(p.30)とも語っています。
『世界は宗教で動いてる』などの著作もある比較宗教学の専門家でもある橋爪氏は、ほかの宗教についても詳しいわけで、そうした見地から仏教の枝葉末節の部分を切り落とせば、そういう結論になるのかもしれませんが……。とにかく橋爪氏が考える仏教のエッセンスが示された本です。
一方で大澤氏は、西洋哲学やキリスト教と仏教を比較してみようとします。たとえばアイザイア・バーリンの自由論について。バーリンは自由をふたつに分類しました。積極的自由と消極的自由です。消極的自由とは「他人に邪魔されていない状態」であり、積極的自由とは「自分が自分をきちんと制御できている状態」のことを言います。これだけを見ると積極的自由がいいものと思えますが、バーリンが憂慮しているのは、積極的自由にはファシズムやスターリニズムが入り込んでくるような余地があるということです。自由があってもそれを何に振り向けるかという点は、非常に難しい問題だからです。革命政党などは人民が何を欲望するべきか、何を目指すべきかを知っていると標榜します。そうなるとかえって自由が抑圧されることがあり得るということになります(だからバーリンは消極的自由に留まるべきだとしました)。
大澤氏曰く、バーリンは仏教のような「内なる砦への撤退」を積極的自由派として捉えました。仏教は煩悩(欲望)を取り除くことを主張します。「すべての欲望を無化することができたとしたら、欲望にまったく翻弄されていない状態が実現したことになります。それは、定義上、積極的自由が実現したことになる。これが仏教版の積極的自由です。」(p.125)これは本当に自由なのか、と大澤氏は問います。ここでは覚り(=積極的自由)というものを得たとして、それが果たして有効なものなのかということが問われています。
おそらく煩悩が消えたときがそのまま覚りとなるわけではないのでしょうが、煩悩が消えた先に覚りというものがあるのでしょう。そんな覚りを体験し、そのあと元の自分に戻ることの重要性を橋爪氏は語ります。覚りは一瞬だと言います。そこに留まることはできません。そこから必ず現実の世界に戻ってくることになります。それでも覚りを体験したあとは元の世界が違って見えてきます。そうすると現実の問題にも、かつてとは違った具体的な解決策が出てくるのだと言います。
ゴータマも35歳で覚りを得て、80歳まで説法を続けながら生き続けました。覚りはそれだけでこの上ない救いになるとされます。それでもやはり元の場所に戻り、具体的に現実的問題に対処することが重要視されているのです。アマゾンのレビューを読むと色々と批判も多い本ですが、このあたりの議論は非常に真っ当なものだと思えます。
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