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立川武蔵 『ブッダから、ほとけへ――原点から読み解く日本仏教思想』

2013.04.30 19:39|宗教
 この本の構成は2部に分れ、それぞれ「ブッダから」と「ほとけへ」と題されています。「ブッダ」とはシャカ族の太子として生まれて悟りを開いたゴータマ・ブッダという歴史的人物のことであり、「ほとけ」とは大乗仏教においてブッダが神格化されて生まれてきた阿弥陀如来や観音菩薩などを指します。ここでの著者の立川武蔵氏の問題意識はこんなふうに記されています。

ブッダから、ほとけへ――原点から読み解く日本の仏教思想


「ブッダ」の時代の仏教は、悟りを目的とした「個」の思想、「個」の存在論的な姿をしています。それがなぜ「ほとけ(=如来思想)」へ自らを委ねる、大衆的な宗教に変わったのだろうか……。 (p.1)


 前半では「無明、ヨーガ、慈悲、空」が扱われ、後半では「浄土、如来、マンダラ、色即是空、仏性、供養、禅、念仏」などの大乗仏教のキーワードが取り上げられます。立川氏は『はじめてのインド哲学』などの著書もある人で、インド哲学の流れのなかで仏教を把握しています。この著書でもインドで生まれた仏教のもともとの姿から、それが時代と場所を変えることによるさまざまな変化が追われていきます。

 例えば「浄土」を扱った章では、戒律を守って修行を積むことによって仏教の最終目的である悟りを得るという方法に加えて、人格神に対する帰依によって精神的救いを得る方法(バクティ崇拝)が認められるようになると言います。念仏を唱えれば極楽浄土に生まれることができると説く阿弥陀如来への信仰もバクティの一形態です。立川氏はこうした変化を「修行者のモデルとしてのブッダから魂の救済者である阿弥陀へという変化」(p.84)だとしています。またこれはインドでは仏教だけでなくヒンドゥー教にも見られた展開であり、ヒンドゥー教ではクリシュナ(ヴィシュヌ)への帰依が説かれました。

 立川氏はさらにマクロな視点で、ヤスパースの「軸の時代」にも触れています。ヤスパースはブッダ、ソクラテス、孔子、イエスが登場した時代を「軸の時代」と呼んでいますが、立川氏は「軸の時代」のなかでも大きな転換があったと考えています。この時代の初め頃――ブッダ、ソクラテス、孔子の頃――にはバクティは明確な形をとっていなかったけれど、最後のイエスはユダヤ教の伝統に以前から存在していた人格神への信仰をより明確な形で打ち出しました。そしてイエスが登場した時代というのが、阿弥陀崇拝の時代に当たります。
 立川氏は阿弥陀崇拝の時代に、個々人の死の問題が大きく浮かび上がってきたと言います。紀元2世紀頃に編纂された『阿弥陀経』『大無量寿経』などの浄土経典では、死の問題が重要視されていることにもそれが表れています。それ以前のブッダ自身は、死後の問題に関して触れることはありませんでした。さらにジャータカ(シャカの前世譚)――ブッダの死後に成立したものだが、大乗仏教よりは前に存在していた――においても、現世にありながら前世のことが語られるだけで、涅槃に入るとこんな仏国土に行くなどとは語られないと指摘しています。死の問題が前面に出る要因はインド社会の安定にあったようですが、そうした結論よりもこの時期に死の問題が宗教的課題とされ、それがバクティ崇拝を生んだという指摘は興味深く読みました。

 あまり馴染みのないインド哲学の部分など理解不足の点も多々あるのですが、キーワード解説書としての側面もあるので、折に触れてその部分だけ読み返すこともできる本でもあり、「ブッダから、ほとけへ」という仏教の大きな流れを整理するのにも役立つ本だと思います。
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