『『ユダ福音書』の謎を解く』 「救われた救済者」とは何か?
2014.03.23 13:30|宗教|
著者はエレーヌ・ペイゲルス、カレン・L・キング。訳者は山形孝夫、新免貢。
異端とされて長い間埋もれていた『ユダ福音書』について、その隠された意味の解明を試みた本です。
新約聖書の4つの福音書では、ユダはイエスを裏切った人物として描かれています。それでも『ヨハネによる福音書』では、イエスはユダに「しようとしていることを、今すぐ、しなさい」と言いつけていますから、イエスはユダの裏切りを知っていて、神が決めたこととして従ったわけですが、『ユダ福音書』ではさらに一歩進んで、ユダこそがイエスを最も理解していた人物とされています。イエスの考えを理解していたからこそ、ユダは裏切ったというわけです。この考え方はもちろん正統派には受け入れがたいものなのだと思いますが、『ユダ福音書』ではほかにも正統派に対する異議申し立てがあります。
それは「神のために死ぬ=殉教」という論理に対する怒りです。『ユダ福音書』では「霊は命であるが、肉は何の役にも立たない」とイエスは教えていますが、当時の多くの信奉者は救われるためには苦痛が不可欠であるとも考えていたようです。イエスが人類の罪を背負って十字架にかかったように、自らを犠牲にすることを厭わない信奉者もいたようです。正統派はこうした殉教を美化することで、それを助長しました。「犠牲システム」は政治権力者にとっては都合のいいことです。正統派はこうした異議表明を異端として退けることで、政治権力者たちの都合のいいように信奉者たちを権力側に差し出してきたというわけです。
また個人的に興味深かったのは、この本の主要テーマとは離れた箇所、第1章の原注にある「救われた救済者」という考え方です。
これはグノーシス的な考え方で、イエスは肉体に囚われているわけではなかったというのが、『『ユダ福音書』の謎を解く』の著者たちの見解です。グノーシス的な考え方で『ユダ福音書』を読むことには、著者たちは注意を促しているわけですが、それはそれとして、ここで言いたいのは「救われた救済者」という考え方があることを初めて知ったということです。もちろん僕自身の不勉強もありますが、こうした考えも異端として退けられてきたからこそ、あまり目にすることがなかったということもあるのかもしれません。だとすると、こうした著作は非常に意義のあるものだという気もします。
異端とされて長い間埋もれていた『ユダ福音書』について、その隠された意味の解明を試みた本です。
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それは「神のために死ぬ=殉教」という論理に対する怒りです。『ユダ福音書』では「霊は命であるが、肉は何の役にも立たない」とイエスは教えていますが、当時の多くの信奉者は救われるためには苦痛が不可欠であるとも考えていたようです。イエスが人類の罪を背負って十字架にかかったように、自らを犠牲にすることを厭わない信奉者もいたようです。正統派はこうした殉教を美化することで、それを助長しました。「犠牲システム」は政治権力者にとっては都合のいいことです。正統派はこうした異議表明を異端として退けることで、政治権力者たちの都合のいいように信奉者たちを権力側に差し出してきたというわけです。
また個人的に興味深かったのは、この本の主要テーマとは離れた箇所、第1章の原注にある「救われた救済者」という考え方です。
ある学者は「ユダは、イエスが必要としていることを実行できた唯一の人物であった、と書いている。すなわち、殺されることによって、死すべき肉体にとらわれている状態から脱出できるように、イエスを当局に引き渡すことができた唯一の人物であった」と。この言い方は、グノーシス派が肉体とこの世を蔑視し、それらを悪と見なしたことを前提としている。それはかくして、救済者が人びとを肉体の牢獄から解放するためにやってきたのだが、彼自身囚われの身となっていたために彼を救う誰かを必要としているという前提である(しばしば「救われた救済者」と呼ばれる見解)。この場合、囚われたイエスを救ったのは一応、ユダであったということになる。(p.23)
これはグノーシス的な考え方で、イエスは肉体に囚われているわけではなかったというのが、『『ユダ福音書』の謎を解く』の著者たちの見解です。グノーシス的な考え方で『ユダ福音書』を読むことには、著者たちは注意を促しているわけですが、それはそれとして、ここで言いたいのは「救われた救済者」という考え方があることを初めて知ったということです。もちろん僕自身の不勉強もありますが、こうした考えも異端として退けられてきたからこそ、あまり目にすることがなかったということもあるのかもしれません。だとすると、こうした著作は非常に意義のあるものだという気もします。
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