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サリンジャー 『フラニーとズーイ』の魅力とは?

2014.04.22 23:03|小説
 J・D・サリンジャーのグラース家ものの1作。文庫版で登場した村上春樹による新訳。

フラニーとズーイ (新潮文庫)


 サリンジャーと言えば『ライ麦畑でつかまえて』が特に有名ですが、個人的にはグラース家の人びとを描いた連作が好きで、『ナイン・ストーリーズ』『大工よ、屋根の梁を高く上げよ』『ハプワース16、1924年』なども一通り読みましたが、なかでもやはり野崎孝『フラニーとゾーイー』を繰り返し読んできました。
 『フラニーとズーイ』という作品は、一般的には登場人物が議論しているだけで動きがなく退屈とか、また宗教的すぎるという感想もあるようです。野崎訳(新潮文庫)の発行は昭和51年ですから、今読むとその翻訳はいささか硬い印象ではありますが、ラストに登場する『太っちょのオバサマ』という表記に思い入れがあったりもします(村上訳では「太ったおばさん」)。村上春樹の今回の新訳は、より自然で読みやすいものになっているように思えました。

 たまたま同じ頃に文庫版が登場した『聖書を語る』中村うさぎ佐藤優の対談)には「春樹とサリンジャー」を論じた部分がありました。この対談は春樹訳が出る前のことですが、『フラニーとズーイ』という作品の宗教的側面を分析しています。
 『ズーイ』のバディからの手紙には、ボーイフレンドの名前を訊かれた少女が、「ボビーとドロシー」と答えたことに対する感動が記されています。この答えがなぜ感動的かと言えば、少女にとってドロシーという女の子もボーイフレンドとなってしまっているということです。これは物事に差異を設けていないということで、後半にも語られる禅の境地を表現したものになります。
 最近刊行された『禅仏教の哲学に向けて』井筒俊彦が丁寧に解説するように、禅においてはわれわれが見ている山や川は違ったリアリティを持ちます。「山は山にあらず」「川は川にあらず」といった禅の境地では、すべてのものが無分節の状態にあります(のちにこの状態を乗り越えると、「山は山」「川は川」となりますが、元の山や川とは違ったものです)。
 こうした無分節の状態は、「俗なるもの」「聖なるもの」を分けて考えないということで、つまり「太ったおばさま」こそが「キリスト」なんだというところにつながっていきます。中村うさぎのこうした分析は非常に説得的だと思います。
 ただ『フラニーとズーイ』の魅力はそうした宗教的側面ばかりではないのだと思います。村上春樹のエッセイでは、その魅力は文体にあるとして、「僕はこの『ズーイ』部分の文章的圧倒性は、『キャッチャー』のあのわくわくする新鮮な文体にじゅうぶん匹敵する力を持ったものであると思っている。」とまで記しています。僕がこの小説を何度も読み返したのは、『太っちょのオバサマ』に対する思い入れもありますが、サリンジャーが練りに練った文章を(翻訳を通してですが)読むことに感動を覚えていたからなのだろうと思います。

聖書を語る (文春文庫)


禅仏教の哲学に向けて


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