『二千年紀の社会と思想』 ソフィーの選択と偽ソフィーの選択
2014.04.30 23:44|社会学|
見田宗介と大澤真幸の対談本。

第三章は見田宗介の『自我の起原』出版時(1993年)の対談で、その後の大澤真幸の連載『社会性の起原』にも通じる対談となっています。第一章と第二章は、「ロジスティクス曲線」とか、「三代目という生き方」などおもしろい議論を含みますが、見田宗介の本(『定本 見田宗介著作集』
)が出版された時期(2011年)の対談で、その本が前提となっている部分は、それらの議論を知らないとやや難しいようにも感じました(逆に言えば、『定本 見田宗介著作集』を読みたくなります)。
第四章はそれまでの対談の議論を踏まえての大澤真幸の論文となります。ここでは東日本大震災後の原発廃止運動を論じています。大澤がまず取り上げるのは『災害ユートピア』という本の議論です。これによれば「革命と災害は、しばしば、不可分である」(p.180)のだそうです。たとえば1985年のメキシコシティ大地震。この地震はその後20年以上も続く長い民主化のプロセスを開始させたのだとか。それでは日本においてはなぜ同様の革命的なこと(原発の廃止)が起きないのでしょうか。
次に大澤は『ソフィーの選択』の有名な議論を提示します。映画化もされたこの作品は、倫理学などでも盛んに取り上げられてきました。「ソフィーの選択」とは、ユダヤ人の強制収容所で、ソフィーがナチにふたりの子供のどちらかを犠牲にすることを迫られるという究極の選択です。これは選択不能な問題であり、ソフィーは精神的に変調を来たすことになります。これに大澤が付け加えるのは「偽ソフィーの選択」というものです。
もしソフィーの手持ちにあるものが子供とエアコンだったら……。ナチは子供とエアコンのどちらかを選べと迫ります。すると途端に問題は簡単なものになります。大切な子供の命のどちらか選ぶことはできませんが、子供とエアコンなら簡単です。当然、子供を選び、エアコンをナチに差し出します。
ここでのエアコンとは、原発をあきらめられない立場を指しています。エアコンは暑い夏には重宝するかもしれませんが、それを子供の命と引き換えにはできないのは明らかです。それなのに、なぜか「ソフィーの選択」と同様の難しい問題と考えてしまっているのです。つまり冷静に考えれば原発廃止は当然の帰結なのに、「どうして、人は、必ずしもこの自明な結論に到達しないのか」(p.195)というのが大澤真幸の疑問です。
大澤はそれを「第三者の審級」と関連で論じていきます。ここでは具体的な方策を提示するまでには至っていませんが、脱原発を表明した菅首相がなぜ脱原発派に指示されないのかという分析には、なるほどと思わされました。
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第一章 現代社会の理論と「可能なる革命」
第二章 名づけられない革命をめぐって
第三章 「自我」の自己裂開的な構造
第四章 未来は幽霊のように
第三章は見田宗介の『自我の起原』出版時(1993年)の対談で、その後の大澤真幸の連載『社会性の起原』にも通じる対談となっています。第一章と第二章は、「ロジスティクス曲線」とか、「三代目という生き方」などおもしろい議論を含みますが、見田宗介の本(『定本 見田宗介著作集』

第四章はそれまでの対談の議論を踏まえての大澤真幸の論文となります。ここでは東日本大震災後の原発廃止運動を論じています。大澤がまず取り上げるのは『災害ユートピア』という本の議論です。これによれば「革命と災害は、しばしば、不可分である」(p.180)のだそうです。たとえば1985年のメキシコシティ大地震。この地震はその後20年以上も続く長い民主化のプロセスを開始させたのだとか。それでは日本においてはなぜ同様の革命的なこと(原発の廃止)が起きないのでしょうか。
次に大澤は『ソフィーの選択』の有名な議論を提示します。映画化もされたこの作品は、倫理学などでも盛んに取り上げられてきました。「ソフィーの選択」とは、ユダヤ人の強制収容所で、ソフィーがナチにふたりの子供のどちらかを犠牲にすることを迫られるという究極の選択です。これは選択不能な問題であり、ソフィーは精神的に変調を来たすことになります。これに大澤が付け加えるのは「偽ソフィーの選択」というものです。
もしソフィーの手持ちにあるものが子供とエアコンだったら……。ナチは子供とエアコンのどちらかを選べと迫ります。すると途端に問題は簡単なものになります。大切な子供の命のどちらか選ぶことはできませんが、子供とエアコンなら簡単です。当然、子供を選び、エアコンをナチに差し出します。
ここでのエアコンとは、原発をあきらめられない立場を指しています。エアコンは暑い夏には重宝するかもしれませんが、それを子供の命と引き換えにはできないのは明らかです。それなのに、なぜか「ソフィーの選択」と同様の難しい問題と考えてしまっているのです。つまり冷静に考えれば原発廃止は当然の帰結なのに、「どうして、人は、必ずしもこの自明な結論に到達しないのか」(p.195)というのが大澤真幸の疑問です。
大澤はそれを「第三者の審級」と関連で論じていきます。ここでは具体的な方策を提示するまでには至っていませんが、脱原発を表明した菅首相がなぜ脱原発派に指示されないのかという分析には、なるほどと思わされました。
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