『SF的な宇宙で安全に暮らすっていうこと』 ユニークなタイムトラベルもの
2014.07.21 10:23|小説|
翻訳者は円城塔ということで、難解(というか意味不明)な作品をイメージしていましたが、この作品は楽しめました。作者のチャールズ・ユウは台湾系のアメリカ人で、理系出身らしく難しい理論なども少しは登場するのですが、いわゆる純文学的な部分もあり読みにくいものではありません。

僕自身はタイムトラベルの理論的な説明やタイムパラドックスの部分を理解しているとも思えないのですが、この小説を一種の「ひきこもり小説」のように読みました。
主人公はタイムマシンの修理屋で、時空の狭間をタイムマシンという狭い空間に引きこもって、OSの女の子タミーと非実在犬エドと生活しています。また父親は元タイムマシン設計の技術者でしたが今は失踪中であり、母親は時間ループという一種の介護施設のなかで暮らしています。それぞれが訳あって引きこもってしまった家族小説というところでしょうか。
この『SF的な宇宙で安全に暮らすっていうこと』での、タイムトラベルの設定はなかなかユニークなものでした。タイムマシンを使って誰もがすることは、人生のうちの最悪な場面に戻ることなのですが、この作品のなかでは過去に戻ることができても、過去を変えることはできません。過去の世界に覗き窓が開くのですが、そこから過去世界を眺めることはできても、一切介入することはできないのです。
主人公の父が発見するタイムマシンの理論は次のように説明されます。
人は空間だけでなく時間のなかで生きているわけですから、これはある意味では当然のことなのです。ここにはSF的な設定も何もないわけで、一般的な時間の流れをタイムマシンとして読み替えているのです。もちろんこのタイムマシンは時間を遡ったりはできないのですが、過去を想起することで過去に戻ったような感覚になることはできるわけです。
また主人公はタイムマシンで過去からやってきた自分に銃で撃たれることになりますが、未来には介入できるという設定は、未来はまだ決定していないからということなのでしょう。現実においても過去の失敗が、長い失意ののちに未来の自分を破滅させるなんてこともないことではありませんから。つまりこの小説でのタイムトラベルは現実の時間の流れを無視したようなものではなく、タイムトラベルという設定も文学作品にありがちな想起をSF風味に仕立て上げたようなものにも思えました。
この小説の後半では、主人公は父と過ごした過去の想い出のなかに戻っていきます。自宅ガレージでタイムマシン設計に精を出す父親とそれを手伝う主人公。結局、それはちょっとした失敗により父親に大きな失意を与えてしまうことになります。その後、父親は失踪してしまうことになるわけですが、主人公にそれを止めることはできません。このあたりの無力感に囚われる感覚も、どこか自分のものとしても共感できる作品でした。
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僕自身はタイムトラベルの理論的な説明やタイムパラドックスの部分を理解しているとも思えないのですが、この小説を一種の「ひきこもり小説」のように読みました。
主人公はタイムマシンの修理屋で、時空の狭間をタイムマシンという狭い空間に引きこもって、OSの女の子タミーと非実在犬エドと生活しています。また父親は元タイムマシン設計の技術者でしたが今は失踪中であり、母親は時間ループという一種の介護施設のなかで暮らしています。それぞれが訳あって引きこもってしまった家族小説というところでしょうか。
この『SF的な宇宙で安全に暮らすっていうこと』での、タイムトラベルの設定はなかなかユニークなものでした。タイムマシンを使って誰もがすることは、人生のうちの最悪な場面に戻ることなのですが、この作品のなかでは過去に戻ることができても、過去を変えることはできません。過去の世界に覗き窓が開くのですが、そこから過去世界を眺めることはできても、一切介入することはできないのです。
主人公の父が発見するタイムマシンの理論は次のように説明されます。
誰もがタイムマシンを持っているのだ。誰も「が」タイムマシンなのだ。ほとんどの人のタイムマシンが壊れているだけのことだ。最も精妙で難易度な高いタイムトラベルは、自力航行だ。人々ははまり込み、ループに落ち込む。囚われる。それでも僕らは皆、タイムマシンなのだ。誰もが完璧に調整されたタイムマシンだ。技術的に、内部に搭乗者を乗せることができるようになっている。僕たちの内部に乗りこんだ旅行者は、タイムトラベルを経験し、喪失を経験し、知恵を得る。僕たちは、可能な限り特化されて設計されたユニバーサル・タイムマシンだ。僕たちのうちの誰もがだ。(p.215)
人は空間だけでなく時間のなかで生きているわけですから、これはある意味では当然のことなのです。ここにはSF的な設定も何もないわけで、一般的な時間の流れをタイムマシンとして読み替えているのです。もちろんこのタイムマシンは時間を遡ったりはできないのですが、過去を想起することで過去に戻ったような感覚になることはできるわけです。
また主人公はタイムマシンで過去からやってきた自分に銃で撃たれることになりますが、未来には介入できるという設定は、未来はまだ決定していないからということなのでしょう。現実においても過去の失敗が、長い失意ののちに未来の自分を破滅させるなんてこともないことではありませんから。つまりこの小説でのタイムトラベルは現実の時間の流れを無視したようなものではなく、タイムトラベルという設定も文学作品にありがちな想起をSF風味に仕立て上げたようなものにも思えました。
この小説の後半では、主人公は父と過ごした過去の想い出のなかに戻っていきます。自宅ガレージでタイムマシン設計に精を出す父親とそれを手伝う主人公。結局、それはちょっとした失敗により父親に大きな失意を与えてしまうことになります。その後、父親は失踪してしまうことになるわけですが、主人公にそれを止めることはできません。このあたりの無力感に囚われる感覚も、どこか自分のものとしても共感できる作品でした。
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