『「自由」はいかに可能か』 自由なんてあって当たり前?
2014.07.28 21:59|哲学|
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そんな「自由とは何か」という問い、この本で著者が考えるのはそんな問いですが、それが本質主義になることの危険をまず検討しています。現代哲学の流れとしては、反本質主義というものがあるようです。本質という絶対的な真理があるとすると、かつてのイデオロギー闘争のような悲惨な結果を生み出すことがあるからです。わが国の連合赤軍事件などのように、誰かがその真理=本質を把握しているなどという勘違いは、その他の意見を封じ込めることになり碌なことにならないわけです。
國分功一郎『暇と退屈の倫理学』という本でも、そうした点には十分な注意が払われるべきだとされており、「本来性なき疎外」という考え方が重要なのだと記されていました。本来性というものが設定されてしまうと、それが強制になってしまうからです。これも本質主義批判のひとつなのだと思います。
そういう意味で著者は自由というものの本質を論じることの危険は承知しているわけですが、「自由の本質などあり得ない、それは多義的かつ操作可能な概念である」として投げ出してしまうこともありません。それでは結局相対主義に陥ってしまうからです。現代では、それは「すでに織り込みの前提」であるのだから、その上でさらに積極的に何らかの自由というものの了解可能な本質を考えていこうとしています。
著者の苫野一徳は若手の研究者の方のようです。自由を論じるに当たっての様々な先行論文を読み解き、威勢よく斬っていきます。それほどの分量の本ではないですが、扱われる論考は多岐に渡ります。著者はヘーゲルや現象学の立場にあり、その立場から自由は人間の最上の価値だとし、検証可能性などの論点でそのほかの論を退けていきます。そしてヘーゲルの自由論を参考にしながら、次のようにまとめています。
諸規定性の中にあってなお、選択・決定可能性を感じることができる。「自由」の本質は、ここに存する。「自由」とは、諸規定性から完全に解放されていることをいうのではなく、ヘーゲルの用語を使ってわたしなりにいい換えるなら、「諸規定性における選択・決定可能性」のうちにあるものなのだ。
砕いていうなら、それは、諸規定性を自覚した上で、できるだけ納得して、さらにできるなら満足して、「生きたいように生きられている」という実感のことといっていい。さらにいい換えれば、「我欲する」と「我なしうる」との一致の実感、あるいはその“可能性”の実感のことともいっていい。(p.81)
さらに社会構想を考えると、各人の「自由」の根本条件としての「自由の相互承認」ということが重要になってくるということです。こうした結論が誰もが了解可能なものなのかは僕にはよくわかりません。ほかの立場からすれば反論があるのかもしれません。
第二部ではそれをさらに実践的に展開するために論を展開しています。この第二部は「「自由」の条件」と題されています。これはハイエクや大澤真幸の自由論の題名でもあるわけですが、実社会における自由の最低限の条件が論じられるわけで、抽象的にならざるを得ない部分があるようです。何だか歯痒い感じがしますが、具体的に自由をこれだと決めつけることは、結局最初に批判した本質主義に陥ることになるから難しいものなのかもしれません。
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