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『東京プリズン』 高校生が考える戦後日本で隠されてきたこと

2014.08.25 22:37|小説
 この本は前回取り上げた『現代思想の時代』でも言及されていて、2012年に刊行され、何かと話題になっていた本とのこと。この7月に文庫化されました。
 作者は赤坂真理。主人公もアカサカマリという名で、1964年東京都の生まれというあたりは、作者自身の経歴と同じであり、小説『東京プリズン』は戦争を知らない世代から見た戦後日本のあり方、特に「天皇の戦争責任」について考察していくという内容になっています。

東京プリズン (河出文庫)



 2009年のマリは、1984年に15歳だったマリと電話を通じて会話することになります。マリは15歳の自分に対し、それが昔の自分と知りつつ彼女の母として振舞います。この小説ではマリは高校生のマリであり、現在40代のマリであり、その母親でもあります。
 すべての人は女から生まれるわけで、祖母→母→マリというつながりは、男という媒介はあっても、自らの分身が連なっているように思えるのかもしれません。ロシアのマトリョーシカ人形みたいに。だからマリの母親は、自分が祖母と同じ墓に入らないことに気付いて驚きます。世の中は女性から見れば、ある種不自然な父系社会となっていて、男の原理に支配されている部分が多いのかもしれません(その最も顕著な例が天皇制だという考察も)。
 高校生のマリは「私の家には、何か隠されたことがある。」(p.81)と感じていて、母にそれを聞きたいと考えています。マリは日本に居られなくなってアメリカに留学させられるわけですが、それは何故なのか知りたいわけです。マリの疑問は日本という国についても当てはまるもので、マリは日本には「何か隠されたことがある」と感じているわけで、作者はマリの家族の歴史と、日本という社会の姿を重ね合わせて物語を進めます。
 主人公のマリはまだ高校生ですから、先の戦争や「天皇の戦争責任」についてほとんど何も知りません。日本では近代史はカリキュラム上教えないことになっています。僕自身も縄文時代やら戦国時代の歴史は学んだ記憶はありますが、教科書の近代の項目に辿り着くまでに必ず次の学年になってしまいます。ほかにも日本には語ることすらタブーとなっていることもあります。こうしたことがマリに「何か隠されたことがある」と感じさせているようです。

 前回の『現代思想の時代』では、歴史を語るときは、その語る人の立場が重要になってくるということが議論されていました。この小説『東京プリズン』で歴史を語るのは、1964年生まれの女性ということになります。そして、その主人公マリが1984年にアメリカを介して日本を学び、歴史を語っていきます。マリが紆余曲折を経て最終的に辿り着くのは、たとえばこんな境地と言えるかもしれません。
 

『私たちは負けてもいい』とは言いません。負けるならそれはしかたない。でも、どう負けるかは自分たちで定義したいのです。それをしなかったことこそが、私たちの本当の負けでした。もちろん、私の同胞が犯した過ちはあります。けれど、それと、他人の罪とは別のことです。自分たちの過ちを見たくないあまりに、他人の過ちにまで目をつぶってしまったことこそ、私たちの負けだったと、今は思います。自分たちの過ちを認めつつ、他人の罪を問うのは、エネルギーの要ることです。でもこれからでも、しなければならないのです。(p.526)

 
 この発言はどこか自虐史観を嗤う立場に近いような気がしますが、作者の考えというよりは、高校生のマリの考えなのでしょう。これは小説であって、歴史の研究書ではありません。この小説では様々な声を響かせることが目論まれているのです。高校生のマリは、40代のマリでもあるし、電話の先にいる母親でもあるわけです。また、マリは自分が殺したヘラジカの声を聞き、ヴェトナムの結合双生児の声を聞き、森の中の大君の声を聞き、三島由紀夫が書いたような『英霊の聲』を聞きます。物語の最後のディベートの場面は、いつの間にかに東京裁判の再現となり、マリは東條英機を演じてみたり、天皇に成り代わって言葉を発します。
 作者・赤坂真理はインタビューで、意見が1個しかないことはファシズムだと思うと語っているようですし、マリの声だけでなく反対意見も含めて様々な声を聞かせることが意図されているのだと思います。

 赤坂真理の作品はいくつか読んだような気もするのですが、硬質な文章でごく個人的で身体的な感覚を書くというイメージだったのですが、この作品は日本社会という大きな視野を持つ作品ですし、かなり饒舌だったので意外な感がありました。
 また、歴史を知らない世代にはとてもためになる教育的な本でもあります。マリが戦争について学ぶたびに、読者もそれを学んでいくことになるからです。たとえば「A級戦犯(平和に対する罪)」という言葉。これは英語では「class-A war criminal」という表記になるようで、「B級戦犯(通例の戦争犯罪)」「C級戦犯(人道に対する罪)」よりも罪が重いわけではないのだそうです。
 英語を介して日本を学んだほうが、かえってわかりやすい部分もあるようで、それは日本語がすでに漢字という外国語を含んだものだからだという考察も頷ける気がします。僕自身は作者よりは年下ですが、昔「A級戦犯」という言葉を聞いたときには「永久戦犯」だと考えていたくらい無知でしたから、恥ずかしながらこの本はとても勉強にもなりましたし、考えさせる内容を多く含んでいる本だと思います。

 最後に、疑問として残ったことについて。「私はひとつ、嘘をついた。ぶらさがった死体なら、見たことがあった。」(p.373)という部分。これはバブルの崩壊と同時に病死したと記されている父親のことを指しているのか? それとも戦犯として吊るされた人を指しているのか? あまりにサラッと書かれているのでわからないのですが、ちょっと気になる部分ではあります。
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