『「ボヴァリー夫人」論』 蓮實重彦のなかば伝説と化していた著作
2014.09.21 13:52|文学|
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『ボヴァリー夫人』と言えば、ギュスターヴ・フローベールの代表作として知られています。たとえばウィキペディアには、「田舎の平凡な結婚生活に倦んだ若い女主人公エマ・ボヴァリーが、不倫と借金の末に追い詰められ自殺するまでを描いた」と記されていて、これはごく一般的な要約となっています。しかし、この本の著者・蓮實重彦からすればこれは否定されることになります。
著者によれば『ボヴァリー夫人』という作品中に、「エンマ・ボヴァリー」という名前は一度も記されていないのだそうです。彼女は「エンマ」「ボヴァリー夫人」「シャルルの妻」「ルオー嬢」といった表記がなされていますが、「エンマ・ボヴァリー」という名前は書き付けられていないのです。それにも関わらず読者は「エンマ・ボヴァリーが自殺した」などと要約してしまったりするわけで、これは「人類は「テクスト」を読むことをあまり好んではいないし、また得意でもないから」(p.64)ですが、実際に「テクスト」を読めばわかることをわれわれは読もうとはしないわけで、こうした点を指摘した批評は今までなかったのです。だからこそ著者は「『ボヴァリー夫人』の「テクスト」に向かい合わねばならない。」(p.28)と宣言しているわけです。先入観や文化的な慣習ではなく、あくまで「テクスト」にどのように書かれているかという問題なのです。
『ボヴァリー夫人』についての言説として有名な「ボヴァリスム」なども同様です。「ボヴァリスム」とは、ごく一般的には「現実と夢の相克」などを示すもので、エンマの人物造形から導き出されたものですが、その言葉も著者によって小気味よく否定されます。「エンマ・ボヴァリーという固有名詞がドン・キホーテのそれと並置されることで形成される理論は、どれもがいかがわしいものだと思っておけばよい。」(p.70)と記されているように、そうした言説は『ボヴァリー夫人』という「テクスト的な現実」にそぐわないものだからです。
僕は『ボヴァリー夫人』を翻訳で数回読んだ程度ですが、疑問に思っていたこともあります。「僕らは自習室にいた。」と始まるこの作品が、「僕」がほとんど登場することもなく進み、「氏は最近レジオン・ドヌール勲章をもらった。」という部分で終わることです。ここでの「氏」とは登場人物の薬剤師オメーのことですが、脇役に過ぎないオメーのエピソードが、主人公であるエンマが死亡したあとに続き、なぜか意味ありげに最後の文章として記されているのが不思議だったのですが、この『「ボヴァリー夫人」論』によりその疑問に関しては納得させられました。
著者によれば、これは第一の「ボヴァリー夫人」(『ボヴァリー夫人』には3人の「ボヴァリー夫人」が登場します)のエピソードとの関係で読み解かれるべきものなのです。第一の「ボヴァリー夫人」とは、エンマの夫となるシャルルの母親のことですが、彼女はシャルルを中学校へと入れることを夢見て夫に何度も懇願します。しかしその願いはなかなか叶えられることはなく、ある日、夫の気まぐれでそれが実現します。このことはオメーが勲章をもらう資格があることを国王にアピールしながらも無視され続け、国王の突然の思いつきで下賜されたことと同じなのです。著者はそれを「超=説話論」的なものの介入として論じています。
あたかも母親の夢の「実現」であるかにみえるシャルルの中学入りは、「僕ら」という単語がそのテクスト的な枠組を提示しているフィクションの中で、父親の理不尽ともいえそうな介入によって、母親の制度的な相対性をきわだたせつつ「説話論」的な持続を始動せしめ、薬剤師の野望の達成であるかにみえるその受勲も、「超=説話論」的な無根拠な気まぐれの介入によって、勝者と思われたものの受動性を露呈させつつ「説話論」的な持続を終結させる。『ボヴァリー夫人』の始まりと終わりの瞬間はそのように決定されており、それ以前にも、それ以後にも、語らるべき言葉は存在しえない。その意味で、「超=説話論」的なものの介入と撤退とは、テクストを限界づける機能を帯びているともいえる。(p.132)
この『「ボヴァリー夫人」論』は、映画評論家としても有名な蓮實重彦の、なかば伝説と化していた著作です。僕自身は『ボヴァリー夫人』の研究者でもなければ、そのほかのフローベール論なども読んだこともないのですが、そこはやはり蓮實重彦という人が書いたものだからこの本を読んだわけです。著者は「生涯の書物」ではなく、あくまで「「老年」の書物」だとも記してはいますが、やはり長年の成果であるのでしょうし、「『ボヴァリー夫人』について書かれた文献を世界で最も読んだ」と自認する人の著作だけに、今まで気がつかなかった指摘に溢れています。エンマとシャルルが兄妹のように似た振る舞いをしているとか、「誰かが足を痛めれば、そのかたわらには異性が姿を見せる」という「主題論的、かつ説話論的な必然」とか、塵埃と頭髪の類似、「3」という数字の氾濫、エンマの死と小唄の関係などなど、800ページを超える大著だけにそうした発見を挙げていけばキリがありません。
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