『反<絆>論』 マイノリティはつらいよ
2015.01.13 20:53|その他|
著者の中島義道はカントが専門の哲学者ですが、ひねくれた人生論のような本も色々と出版していて、積極的なファンだとは多分誰も言わないんじゃないかとは思いますが、そんな本を読んでみたくなる時もあります。この本は東日本大震災以後に世間で盛んに言われるようになった<絆>というものに対して異を唱えるものになっています。

著者のほかの本にも書かれていることですが、著者はかなりの偏屈な人物であり、電車に乗れば見ず知らずの人に平気で注意をし、場の雰囲気を凍りつかせたり、人づきあいはしないと宣言したりと自分勝手に振舞っているように見えます。しかし、今回改めて『反<絆>論』を読んでみると、その傲慢とも思える言葉にもそれなりに配慮が働いているようにも思えました。勝手なイメージでもっと威勢のいい啖呵を期待してもいたのですが……。
震災後の<絆>に対し茶々を入れるなんてことは、かなり顰蹙を買うことだと思います。ただ著者はマスコミなどでそれらが大々的に喧伝され、それ以外の言葉が封殺されてしまうことに異を唱えているわけで、具体的な<絆>そのものを嫌っているわけではありません。世間がそれ一色になり、どんな反対意見も言えないような暴力的な空気を嫌っているわけです。そんな世の中では「繊細な精神」(パスカル)で失われてしまうからです。
「組織に留まるべきか、組織から出るべきか」という部分では、「自分の感受性と信念に反することを強いられる組織に属している場合」のことを検討しています。実際、会社組織などに属していれば、そのほとんどがそうした組織なのではないかと思います。特に自分をマイノリティだと意識している人はそうで、この本の読者の多くがそれを意識しているのではないでしょうか(もちろん僕自身もそうです)。この場合、自分の信条に従って、組織の裁き(たとえばいじめなど)を受けるほうを著者が推奨するわけではありません。
こうなると人間として劣化していくことになります。組織を出ることができればいいのですが、となると飢えることになります。著者の場合は、哲学の教師という立場にありますから、しのぐことができたわけですが、そのほかの道もごく限られていてかなり狭き門になるでしょう。
著者も「公的」と「私的」なものを使い分けている部分もあったようですし、いかに偏屈でもそれを貫くだけでは生きてはいけないようです。ただ著者の場合、「公的」(多分こうした著作など)には偏屈を押し通そうとし、「私的」にはそれなりに他人に合わせてもいるようで、普通とは逆になっているようです。著者のように「公的」に偏屈なキャラが認められれば楽なのかもしれませんが、ごく普通のマイノリティにはなかなか難しそうです。
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著者のほかの本にも書かれていることですが、著者はかなりの偏屈な人物であり、電車に乗れば見ず知らずの人に平気で注意をし、場の雰囲気を凍りつかせたり、人づきあいはしないと宣言したりと自分勝手に振舞っているように見えます。しかし、今回改めて『反<絆>論』を読んでみると、その傲慢とも思える言葉にもそれなりに配慮が働いているようにも思えました。勝手なイメージでもっと威勢のいい啖呵を期待してもいたのですが……。
震災後の<絆>に対し茶々を入れるなんてことは、かなり顰蹙を買うことだと思います。ただ著者はマスコミなどでそれらが大々的に喧伝され、それ以外の言葉が封殺されてしまうことに異を唱えているわけで、具体的な<絆>そのものを嫌っているわけではありません。世間がそれ一色になり、どんな反対意見も言えないような暴力的な空気を嫌っているわけです。そんな世の中では「繊細な精神」(パスカル)で失われてしまうからです。
「組織に留まるべきか、組織から出るべきか」という部分では、「自分の感受性と信念に反することを強いられる組織に属している場合」のことを検討しています。実際、会社組織などに属していれば、そのほとんどがそうした組織なのではないかと思います。特に自分をマイノリティだと意識している人はそうで、この本の読者の多くがそれを意識しているのではないでしょうか(もちろん僕自身もそうです)。この場合、自分の信条に従って、組織の裁き(たとえばいじめなど)を受けるほうを著者が推奨するわけではありません。
ある人が長期間にわたって組織の中で排除されていくうちに、一般に彼(女)は、他の社員を軽蔑し、憎み、いかなる他人の助言も聞かない傲慢で自分勝手で硬直した人間になっていくからである。あるいは、被害者意識に凝り固まった、ひがみっぽい、恨みがましい、人間に転化していくからである。(p.106)
こうなると人間として劣化していくことになります。組織を出ることができればいいのですが、となると飢えることになります。著者の場合は、哲学の教師という立場にありますから、しのぐことができたわけですが、そのほかの道もごく限られていてかなり狭き門になるでしょう。
著者も「公的」と「私的」なものを使い分けている部分もあったようですし、いかに偏屈でもそれを貫くだけでは生きてはいけないようです。ただ著者の場合、「公的」(多分こうした著作など)には偏屈を押し通そうとし、「私的」にはそれなりに他人に合わせてもいるようで、普通とは逆になっているようです。著者のように「公的」に偏屈なキャラが認められれば楽なのかもしれませんが、ごく普通のマイノリティにはなかなか難しそうです。
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