『善の根拠』 仏教の考えで善悪を論じると……
2015.01.27 20:21|宗教|
著者の南直哉は曹洞宗の僧侶であり、以前にこのブログでも取り上げた『宮崎哲弥 仏教教理問答』でも対談相手として登場していました。
この本は仏教書ではないと最初に断りがあります。かといって著者が依拠する仏教の立場から完全に離れるわけでもないのですが、著者は善悪問題をあくまで私的に検討していきます。仏教の考えではこうなっていますといった教義の説明ではなく、独自の論が展開されます。

著者は「善悪問題(倫理問題)こそが仏教の急所だと思う」(p.11)と記しています。仏教の基本的な考え方は「諸行無常」「諸法無我」という言葉で表されます。「諸行無常」とは、一切の現象は変化して移り変わり続けるということであり、「諸法無我」とは、あらゆる存在は実体を持たないということです。
こうした考えを徹底すれば、行為する者の一貫した主体性を想定できないし、確たるものが何もないわけで、善悪の区別は根拠を失います。だからこそ著者はそれを「仏教の急所」だと言うわけです。それでも著者は「諸行無常」「諸法無我」という考えから善悪問題を考えてみようとしています。
善悪とは何か。
著者によれば「悪は欲望され、善は課せられるもの」(p.15)となります。「悪であるがゆえに禁止されるのではなく、ある欲望が禁止される。その禁止された欲望が悪であり、禁を犯せば罰せられ、罰せられたことが罪と呼ばれることになる。」(p.15)そして反対に善は課せられます。善と悪にはその根底に強制があるわけです。著者はそこに自己に対して強制を迫るような他者(共同体)を見出だします。というより、自己というものの存在が、「他者から課された」ものであると考えるわけです。
動物であれば群れには「掟」があり、各個体はそれに従って生きていきます。人間においても共同体の行動基準として「道徳」というものがありますが、ここで論じられるのは道徳の問題ではありません。ここでは自己の存立の問題、つまり「倫理」が問われています。
「倫理」と「道徳」の整理は様々あるかと思いますが、たとえば社会学者・宮台真司はこんなふうに整理していました。「道徳」は共同体の目を行動規範にすることで、「倫理」とは神の目を行動規範にすることだと。仏教においては神の目はありませんから、この本では倫理をそんなふうに整理するわけではありません。
この倫理の問題は、自己の存在様式を受け入れるか否かという決断にあるのだと著者は言います。善悪の問題もここに関わってきます。「他者から課された」ものである自己を受容することが「善」となり、それを拒否することが「悪」となるのです。そしてそれは根拠のない「賭け」だとも言います(パスカルを思わせます)。
こうした善悪の捉え方はかなり独特なものです。根拠がないところを土台にしているから、なかなか厄介な議論になっているようにも思えます。著者はこのアイディアで大乗仏教の戒律をも検討しようとします。たとえば「不淫戒」の部分では、修行の邪魔になるということよりも、子供をつくらないという決意をすることが重要で、それによって他者に何かを課すことのない存在に留まるといったことが記されています。誰もが納得できるような議論になっているかと言えば疑問も沸いてきます(そもそも著者の議論を理解しているかもあやしいですが)。
著者自身も対談部分では、「あえて理屈を考えてみました、ということだけ」(p.193)などとも語っています。それでもわざわざそんなことをするのは、仏教がそのあたりを正面から扱ってこなかったということを憂慮する仏教者としての想いがあるのでしょう。そんな意味では、自らの言葉で真摯に考えてみようといった心意気みたいなものが感じられました。
この本は仏教書ではないと最初に断りがあります。かといって著者が依拠する仏教の立場から完全に離れるわけでもないのですが、著者は善悪問題をあくまで私的に検討していきます。仏教の考えではこうなっていますといった教義の説明ではなく、独自の論が展開されます。
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著者は「善悪問題(倫理問題)こそが仏教の急所だと思う」(p.11)と記しています。仏教の基本的な考え方は「諸行無常」「諸法無我」という言葉で表されます。「諸行無常」とは、一切の現象は変化して移り変わり続けるということであり、「諸法無我」とは、あらゆる存在は実体を持たないということです。
こうした考えを徹底すれば、行為する者の一貫した主体性を想定できないし、確たるものが何もないわけで、善悪の区別は根拠を失います。だからこそ著者はそれを「仏教の急所」だと言うわけです。それでも著者は「諸行無常」「諸法無我」という考えから善悪問題を考えてみようとしています。
善悪とは何か。
著者によれば「悪は欲望され、善は課せられるもの」(p.15)となります。「悪であるがゆえに禁止されるのではなく、ある欲望が禁止される。その禁止された欲望が悪であり、禁を犯せば罰せられ、罰せられたことが罪と呼ばれることになる。」(p.15)そして反対に善は課せられます。善と悪にはその根底に強制があるわけです。著者はそこに自己に対して強制を迫るような他者(共同体)を見出だします。というより、自己というものの存在が、「他者から課された」ものであると考えるわけです。
動物であれば群れには「掟」があり、各個体はそれに従って生きていきます。人間においても共同体の行動基準として「道徳」というものがありますが、ここで論じられるのは道徳の問題ではありません。ここでは自己の存立の問題、つまり「倫理」が問われています。
「倫理」と「道徳」の整理は様々あるかと思いますが、たとえば社会学者・宮台真司はこんなふうに整理していました。「道徳」は共同体の目を行動規範にすることで、「倫理」とは神の目を行動規範にすることだと。仏教においては神の目はありませんから、この本では倫理をそんなふうに整理するわけではありません。
この倫理の問題は、自己の存在様式を受け入れるか否かという決断にあるのだと著者は言います。善悪の問題もここに関わってきます。「他者から課された」ものである自己を受容することが「善」となり、それを拒否することが「悪」となるのです。そしてそれは根拠のない「賭け」だとも言います(パスカルを思わせます)。
こうした善悪の捉え方はかなり独特なものです。根拠がないところを土台にしているから、なかなか厄介な議論になっているようにも思えます。著者はこのアイディアで大乗仏教の戒律をも検討しようとします。たとえば「不淫戒」の部分では、修行の邪魔になるということよりも、子供をつくらないという決意をすることが重要で、それによって他者に何かを課すことのない存在に留まるといったことが記されています。誰もが納得できるような議論になっているかと言えば疑問も沸いてきます(そもそも著者の議論を理解しているかもあやしいですが)。
著者自身も対談部分では、「あえて理屈を考えてみました、ということだけ」(p.193)などとも語っています。それでもわざわざそんなことをするのは、仏教がそのあたりを正面から扱ってこなかったということを憂慮する仏教者としての想いがあるのでしょう。そんな意味では、自らの言葉で真摯に考えてみようといった心意気みたいなものが感じられました。
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