『奇跡を考える 科学と宗教』 モーゼは魔術師だったのか?
2015.02.08 18:28|その他|
著者の村上陽一郎は科学史家・科学哲学者。僕も学生時代の教科書か何かで、著者の文章を読んだことがあったような……。

現在公開中の映画『エクソダス:神と王』は、モーゼを主人公とする映画です。有名な1956年の『十戒』と同様に、旧約聖書の「出エジプト記」が原作となっています。この『奇跡を考える』の導入部分でも「出エジプト記」でのエピソードが、「奇跡」を考える上での出発点となっています。
モーゼは神の命令によりユダヤ人を解放させるために奇跡を行います。最初はエジプト王の前で杖をヘビに変えるのですが、エジプト王直属の魔術師が同じことをやってみせることになるわけで、「奇跡」と「魔術」がどう違うのかというのが問題になるわけです(外見上は見分けがつかない)。
この本の第1章では、プラトン、アリストテレス、アウグスティヌス、ケプラー、ベーコン、デカルト、ニュートンなどの考えを追いながら、西洋において「奇跡」というものが理性によって締め出されることになる過程を辿っていきます。
第1章の最後に論じられるピエール・ベールの箇所では、「神の働きは、自分の創造した自然の内部に限定され、そこに閉じ込められた、言い換えれば、自然そのものでしかないような形でのみ、理解されることになった。」(p.109)とまとめられています。
ちなみに『エクソダス』では、「10の奇跡」が描かれますが、それらは自然現象として説明されることになります。科学万能主義が支配的な現在からモーゼの物語を解釈すれば、そうならざるを得ないということなのかもしれません。たとえば紅海が真っ二つに割れる奇跡は、隕石の落下による引き波により海が渡れるようになったと説明されるわけです(そのあとは大津波がやってきて、追ってきたエジプト軍は飲み込まれるというスペクタクルが展開します)。
神が自然そのものでしかないという理神論的な考え方の先に、「科学」というものが誕生することになるわけですが、科学史家である著者は決して「奇跡」を否定するものではないようです。第2章は「神の言葉・人間の言葉」と題されていますが、この章では「言葉」という側面から、宗教的な知識と自然科学の知識を比較していきます。
スコラ学では「神は二つの書物を書いた」という言い方があるそうです。一つは「聖書」であり、もう一つは「自然」です。神は別の言葉で同じことを記しているわけで、それが「聖書」であり「自然」ということになります。しかし理神論的な考えのもとでは神は排除されることになり、「自然」と「聖書」とは別のものになっていきます。
神の言葉
そうなると「聖書に書かれていることは、多義的で、象徴的で、如何ようにも解釈できるから、信頼することができない。これに反し、自然の言葉は、人間の言葉のように多義性や象徴性を持たない「数学」であるから、それによって記述される自然の姿(科学的世界)は明証的で信頼がおける。」(p.136)ということなります。「奇跡」のように「数学」の言葉で書くことができない出来事は否定されることになるわけです。
ただ間違ってはいけないのは、もともと科学が成立しているのは、科学が扱う範囲を限定しているからです。科学は数学で書けないような自然というものを、科学の扱う範囲ではないと決めているということです。だから「奇跡」という現象も科学の扱う範囲ではないだけの話で、「奇跡」が存在しないということにはなりません(ここで著者は『ルルドへの旅・祈り』
という本を引用しています)。
本当の「神の言葉」は人間にはわかりません。「神の言葉」を「人間の言葉」で何とか表現しようとするものの、それはやはり「あまりに人間的」なものにしかなりません。神は超越的な存在だからです。
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現在公開中の映画『エクソダス:神と王』は、モーゼを主人公とする映画です。有名な1956年の『十戒』と同様に、旧約聖書の「出エジプト記」が原作となっています。この『奇跡を考える』の導入部分でも「出エジプト記」でのエピソードが、「奇跡」を考える上での出発点となっています。
モーゼは神の命令によりユダヤ人を解放させるために奇跡を行います。最初はエジプト王の前で杖をヘビに変えるのですが、エジプト王直属の魔術師が同じことをやってみせることになるわけで、「奇跡」と「魔術」がどう違うのかというのが問題になるわけです(外見上は見分けがつかない)。
この本の第1章では、プラトン、アリストテレス、アウグスティヌス、ケプラー、ベーコン、デカルト、ニュートンなどの考えを追いながら、西洋において「奇跡」というものが理性によって締め出されることになる過程を辿っていきます。
第1章の最後に論じられるピエール・ベールの箇所では、「神の働きは、自分の創造した自然の内部に限定され、そこに閉じ込められた、言い換えれば、自然そのものでしかないような形でのみ、理解されることになった。」(p.109)とまとめられています。
ちなみに『エクソダス』では、「10の奇跡」が描かれますが、それらは自然現象として説明されることになります。科学万能主義が支配的な現在からモーゼの物語を解釈すれば、そうならざるを得ないということなのかもしれません。たとえば紅海が真っ二つに割れる奇跡は、隕石の落下による引き波により海が渡れるようになったと説明されるわけです(そのあとは大津波がやってきて、追ってきたエジプト軍は飲み込まれるというスペクタクルが展開します)。
神が自然そのものでしかないという理神論的な考え方の先に、「科学」というものが誕生することになるわけですが、科学史家である著者は決して「奇跡」を否定するものではないようです。第2章は「神の言葉・人間の言葉」と題されていますが、この章では「言葉」という側面から、宗教的な知識と自然科学の知識を比較していきます。
スコラ学では「神は二つの書物を書いた」という言い方があるそうです。一つは「聖書」であり、もう一つは「自然」です。神は別の言葉で同じことを記しているわけで、それが「聖書」であり「自然」ということになります。しかし理神論的な考えのもとでは神は排除されることになり、「自然」と「聖書」とは別のものになっていきます。
神の言葉
自然 ⇒ 自然の言葉(数学) ― 明証的
聖書 ⇒ 人間の言葉(通常の言葉) ― 多義的・象徴的
そうなると「聖書に書かれていることは、多義的で、象徴的で、如何ようにも解釈できるから、信頼することができない。これに反し、自然の言葉は、人間の言葉のように多義性や象徴性を持たない「数学」であるから、それによって記述される自然の姿(科学的世界)は明証的で信頼がおける。」(p.136)ということなります。「奇跡」のように「数学」の言葉で書くことができない出来事は否定されることになるわけです。
ただ間違ってはいけないのは、もともと科学が成立しているのは、科学が扱う範囲を限定しているからです。科学は数学で書けないような自然というものを、科学の扱う範囲ではないと決めているということです。だから「奇跡」という現象も科学の扱う範囲ではないだけの話で、「奇跡」が存在しないということにはなりません(ここで著者は『ルルドへの旅・祈り』

本当の「神の言葉」は人間にはわかりません。「神の言葉」を「人間の言葉」で何とか表現しようとするものの、それはやはり「あまりに人間的」なものにしかなりません。神は超越的な存在だからです。
超越者ではない人間が、ある場合に、超越を知り、超越を理解し、超越を信じる(それが人間の限界の内部での話であったとしても)ことがあり得る、ということこそ、真に「奇跡」というべきことなのではあるまいか。(p.156)
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