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『自由という牢獄』 神が存在しなければ、すべてが許されない?

2015.04.29 21:17|社会学
 大澤真幸の自由論には『<自由>の条件』がありましたが、この『自由という牢獄』は、これまでに雑誌に発表した論文「自由の牢獄」「責任論」「〈公共性〉の条件」と、第4章の書き下ろしを含めたものになっています。

自由という牢獄――責任・公共性・資本主義



 1989年に冷戦が終結し、その後ほかの社会主義政権も軒並み倒れました。社会主義が求める「平等」よりも、資本主義が標榜する「自由」のほうがよかったということが明らかになったわけです。したがって「冷戦以降の社会科学と社会思想の最大の課題は、自由な社会はいかなる条件のもとで可能か、ということに集約されるはずだ」(p.6)と大澤は言います。そして自由であるがゆえに選択肢が多すぎて、どれを選ぶこともできなくなります。そんな状況について論じたのが第1章の「自由の牢獄」(この言葉自体はミヒャエル・エンデの短編から)です。
 第4章「不・自由を記述する赤インク」では、自由を資本主義との関連で検討していきます。ここで大澤は以前より拡大している格差の問題に関して、今、巷で売れているというトマ・ピケティの本(『21世紀の資本論』)を引いて論じています。
 「資本分配率>労働分配率」というのがピケティの本の要諦らしいのですが、資本分配率のほうが大きいと富裕層に有利に働くため格差は拡大していきます。大澤はこれをマルクスの「剰余価値」の議論へ結びつけ、さらに「形式への欲望(貨幣への欲望)」の過剰というものだと論じています。

 次に大澤は「市場による道徳の締め出し」と呼ばれる現象に注目します。これはマイケル・サンデルの本にも登場する、ある実験から導き出されたものです(大澤はここでサンデルの本の書評もしています)。かなり大雑把に要約すれば、ある有意義な目的のための寄付を行うとして、そのときあるグループは寄付の重要性を説かれて送り出され、別のグループは集めた寄付の金額に応じて金銭的報酬も出ると告げられます。
 常識的な理解によれば、金銭的なインセンティブがあるグループのほうが寄付をより多く集めそうですが、実験の結果はそうではありませんでした。無報酬のグループのほうがより多くの寄付を集めたのです。
 寄付を集めるのは崇高な行為です。これは行為そのものが目的となっています。しかしそれに金銭的なインセンティブという手段(金を稼ぐために寄付を集める)が加わってしまうと、崇高な目的であった寄付を集める行為そのものがうまくいかなくなってしまうのです。

 にもかかわらず市場では金銭的なインセンティブが優位になるのはなぜかと大澤は問います。ここで「自由」の問題が関わってきます。第1章にもあったように選択肢があまりに多い場合、それ自体が「目的」となるような行為を人は選ぶことができるのかということです。つまりは「自由の牢獄」というわけです。
 さらに大澤は『カラマーゾフの兄弟』のなかの「もし神が存在しなければ、すべてが許される」という有名なフレーズからヒントを得て、「自由」について論じています。伝統社会は「神が存在するがゆえに、(いくつかのことが)禁止されている」状態です。これをもとにして前件に「神の存在/不在」を置き、後件に「禁止/許容」を置くと三つの変異版ができます。

①神が存在しなければ、すべてが許される 
           (例:『カラマーゾフの兄弟』)
②神が存在するならば、すべてが許される 
           (例:オウム真理教)
③神が存在しなければ、すべてが許されない 
           (例:「自由の牢獄」、ひきこもり)

 どちらかと言えば③のようにひきこもりがちな人間として、こうした議論も何となくわからないでもないような気もします。
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