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『映画とは何か』 アンドレ・バザンの考える映画のリアリズム

2015.05.24 19:57|映画
 『カイエ・デュ・シネマ』を創刊したアンドレ・バザンによる映画批評集。翻訳は野崎歓大原宣久谷本道昭

映画とは何か(上) (岩波文庫)


映画とは何か(下) (岩波文庫)



 翻訳者がバザンの独創と解説するのは、「十九世紀の写真術発明以来、写真の弱点をみなされがちだったその機械的性格のうちにこそ、芸術史上、類例のない重要さがあると正面から主張したこと」(下巻 p.266)だと言います。
 エジプトのミイラは王が永遠の命を保つためのものでした。肉体の永続が死後の生を保証するものと考えられていたからです。しかし、そうした願望はエジプト王だけでなく、誰もが抱くものでしょう。さすがに永遠の命は無理だとしても、誰かの思い出を記録するとしたら、肖像画よりは写真のほうがリアルなものとして感じられます。そして写真よりも映像(映画)のほうがよりリアルなものとして感じられるでしょう。
 バザンは映画のリアリズムを「死にあらがい、時間の破壊作用に抗して、今ある現実の姿をそのままに留めたいという、人間の根源的な「リアリズム」への欲望をかなえるものとしてとらえる」(下巻 p.266)ものと考えます。

 写真はその瞬間性ゆえに、一瞬の時間しかとらえることができず、その意味では不完全な技術だ。対象の時間を型取りしつつ、さらにその持続の痕跡までもつかみ取るという異様なパラドックスを実現したのが映画なのである。(上巻 p.251)


 この本の上巻には絵画・写真・演劇・小説などと映画との関係が論じられます。それぞれの分野にはそれぞれの特性があるわけで、誕生としては一番遅い(若い)芸術である映画がそれらの先行芸術から学ぶところや独自なところなどを論じていて、とても興味深いものがあります。

 「映画言語の進化」という論考では、オーソン・ウェルズ『市民ケーン』の革新的な部分を論じています。それまでのモンタージュでは、映像が示す意味は限定的なものとなります(「禁じられたモンタージュ」という論考はとても明解)。
 たとえば「男の顔」が「死んだ子供」の映像と結び付けられたならば、その男の表情は悲しみを湛えたものとして理解されます。代わりに「男の顔」が「肉感的な女性の裸」の映像と組み合わせられれば、その表情から性的欲望を感じるでしょう。
 しかし現実には曖昧さがあります。『市民ケーン』は「画面の深さ」を利用します。妻スーザンの自殺未遂の場面では、画面手前に薬のビンがあり、中心には倒れたスーザンがいて、奥にはそれを発見するケーンが、ワンショットで描かれています。そのすべてに焦点が合っているため、観客はそのどこに目をやってもいいわけで、バザンは言うには映画のイメージの構造の中に曖昧さを導入したということになります。これも新たなリアリズムの形態です。
 またこうした動きと時代的に並行してあったのがイタリアのネオリアリズモで、この本の下巻の大部分はロベルト・ロッセリーニヴィットリオ・デ・シーカを擁護する文章で占められています。デ・シーカ『自転車泥棒』は、僕は昔テレビで観て、単純にいい話だと感動した記憶がありますが、映画史のなかで読み解くバザンの批評は読み応えがあります。
 こうしたバザンの活躍が『カイエ・デュ・シネマ』のグループを中心とした批評家たちの活躍につながるわけで、前回とりあげたロメールシャブロル『ヒッチコック』を生み出し、ヌーヴェル・ヴァーグへも結びついていきます。なぜ今までこの本の翻訳が絶版となっていたか不思議な感じもします。
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