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『映画は絵画のように――静止・運動・時間』 アントニオーニと抽象絵画

2015.09.23 21:00|映画
 著者は以前に『黙示録――イメージの源泉』でも取り上げた岡田温司
 題名は「詩は絵画のように」というホラティウスの言葉をもじったもの。

映画は絵画のように――静止・運動・時間



 第Ⅰ章は総論になっていて、以降「影」「鏡」「肖像画」「彫刻」「活人画」などのテーマごとに論じられます(ちなみに第Ⅰ章にはアンドレ・バザンの名前が登場していて、ここでもバザンの影響を知らされます)。映画がいかに多くのことを先行芸術から学んできたかということがわかります。著者の専門は西洋美術史ということですが、かなり幅広い映画作品に関して触れられています。ただ古い作品も多いので、近所のレンタル店などでも見つけにくい作品が多いことが難点かもしれません。
 この本を読むと様々な映画監督が絵画から多くのことを学んで、それを映画に取り入れているということがわかります。たとえばヒッチコック『めまい』において、映像で肖像画を再現しているのだと言います。
 カメラが登場人物のマデリンの横顔を捉えると、それが静止画のようになるあたりのシークエンスがそうです。美術史のなかではプロフィールの肖像画はルネサンスのイタリアで盛んだったようで、それはコインの浮き彫りを模範としていて、そのモデルに記念碑的な性格を与えることができると評価されていたからです。ヒッチコックは肖像画への挑戦を映画のなかで行っているというわけです。

 個人的に興味深く読んだのは第Ⅶ章「さながら抽象画」です。というのも、ここではミケランジェロ・アントニオーニ監督の作品が取り上げられているからです。著者はアントニオーニの作品を抽象絵画との関連で論じています。『情事』のラストシーンは画面の半分が壁で遮られていて、確かに抽象絵画のような雰囲気があります。また、『砂丘』のラストの爆発シーンは、ジャクソン・ポロックの絵画と関連させられます。爆発で粉々に飛び散っていく破片が、ポロックのドロッピングに譬えられているのです。
 それから『太陽はひとりぼっち』という作品の有名なラストのシークエンスついて(僕はこの作品がお気に入りの1本なので)。正直に言えば、この作品のラストがよくわかるかと言えばそういうわけでもないのですが、なぜか惹かれるものがあります。わからないけれど惹かれるという言い方では何の説明にもなりませんが、たとえば吉田修一の小説『東京湾景』でのこの作品の解釈にも違和感があります。
 ふたりが「いつもの場所で」と待ち合わせたあとで、延々とふたりが登場しない「いつもの場所」が映し出され、結局ふたりは会わないままで終わる。もちろんこれでも間違いではないのでしょうが、妙に狭い解釈のような気がします(もちろん『東京湾景』は小説ですから、作者の解釈とは違っているのかもしれませんが)。
 著者の岡田氏が『東京湾景』について触れているわけではありませんが、アントニオーニの作品に関して「あまりにももっともらしく聞こえるような読み込みは禁物である、すべては開かれたまま宙吊りにされている」(p.259)と記しています。それからある美術史家の言葉を引いています。「抽象絵画の特徴は、単に表象再現から解放された表現のみにあるのではなくて、解釈への抵抗、言語化の拒絶のうちにある」(p.269)のだということです。そんなわけでやはりアントニオーニ作品は一筋縄ではいかないようですが、もう一度アントニオーニ作品を観直してみたくなりました。

ミケランジェロ・アントニオーニの映画

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