大澤真幸 『生権力の思想――事件から読み解く現代社会の転換』 管理型権力が奪うものは何か?
2013.07.17 22:21|社会学|
権力とは、従わなければ「死ね」という、むりやり他者の命令に従わせるようなものだったわけですが、フーコーによれば近代の権力は、生への権力となったのだとか。そして生権力のあり方は規律訓練というものに表れます。規律訓練型の権力は、パノプティコンに象徴されるように、個人の身体への持続的な監視を媒介にして、個人の内省(告白)を促して、個人を主体化します。
一方、管理型権力は、保持するカードなどによって出入りできる場所を制限されたり、監視カメラなどで映像情報がデータベース化されたりするような形になります。人々は知らないうちにアーキテクチャーによって管理されるわけです。たとえば、大手外食チェーンでは、イスは硬いプラスチック製で、夏などしばらく読書でもしようものなら寒くて震え出すほどの冷房で、客の回転率を上げています。管理型権力では、服従動機を経由せずに、いつの間にか人々を従わせることに成功していることになります。
そして生権力が規律訓練型のものから、管理型のものへと転換しつつあるということは、ドゥルーズをはじめとする多くの論者によってかねてより指摘されてきました。どうしてその転換が起こったのか? また、管理型権力が奪うものは何か? こうした疑問こそが、大澤真幸氏がこの本で考察している問題です。
大澤氏はそれを身体論から読み解いていきます。
太陽王と呼ばれたルイ14世を描いた映画は、『王は踊る』という題名です。王の権力は、王の身体が人々の前に華々しく現前することによってこそ確保されました。見られることが最大の威信を担ったわけです。そして、「体育は、舞踏がかつてヨーロッパの文化のなかに占めていた位置に、舞踏を代替するものとして出現したのではないか」(p.83)という三浦雅士氏の議論から、大澤氏は次のような考察を導きます。
体育とはもともとは兵士を鍛えるためのものでした。体育の身体は、きわめて多数の身体を一挙に捉えうるような視線に対して、自らが見られることを想定しています。理論上それは無限遠の上空に存在します。かつては「踊る王」という具体的な存在が威信を集めたわけですが、今では抽象的な視線によって見られることを想定しているわけです。これは大澤氏の独特な用語で言えば、「第三者の審級」の抽象化と言えるでしょう。
「第三者の審級」とは、ごく簡単に言ってしまえば、信仰者にとっての神のようなものです。それがなぜ抽象化していくのかと言えば、「第三者の審級」の力が及ぶ範囲を拡大していこうとすれば、次第に普遍的なものにならざるを得ないからです。新興宗教が力を発揮できる範囲はごく限られています。普遍的な世界宗教になるに従って、「第三者の審級」の示す規範は緩いものにならざるを得ないのです。ユダヤ教はユダヤ民族のための宗教であり、その他の民を救うことは考えませんでした。キリスト教では人類すべてが対象ですが、普遍的になった分、ユダヤ教にあった律法は廃棄されることになるわけです。
規律訓練による権力は、個人を主体化します。つまりパノプティコンの奥に隠れた見えない視線を感じ続けることで、「第三者の審級」が良しとするような価値観へと自分を導くように誘導されるわけです。「第三者の審級」の示す規範が失われた管理型権力ではどうでしょうか? 管理型社会では個人情報は知らないうちに収集され、特定の局面のみの断片的な情報によって個人は判断されます。こうした状況下では主体は断片化されていきます。こうした状況を大澤は「客観的な主体化」と呼んでいます。管理型権力によって収集された情報は、ある人が「客観的に何であるか」を示しているというわけです。アマゾンによって収集された情報が、それをもとにお薦めの本などを提示されると、自分の求めていた本だったような気持ちになってしまうようなものです。また、先日のPC遠隔操作事件では誤認逮捕されたなかには、やってもいない犯行を告白する者も出ました。PCに証拠が残っていると客観的な証拠を突き付けられると、そんなことも起こりうるわけです。このあたりが、管理型権力がわれわれから奪っていく何かであり、大澤氏それを偶有性に関連させて考えているようです。
かなり思い切って一直線にまとめましたが、こんな粗略な要約では到底この本を読んだことにはならないでしょう。新書とは言え、ここでされている議論は多岐に渡るし、内容もやさしいものではないからです。いつものようにかなりアクロバティックな論理展開と感じる部分もあるのですが、何かしら学ぶべきものが多いのも大澤氏の本なのだと思います。
一方、管理型権力は、保持するカードなどによって出入りできる場所を制限されたり、監視カメラなどで映像情報がデータベース化されたりするような形になります。人々は知らないうちにアーキテクチャーによって管理されるわけです。たとえば、大手外食チェーンでは、イスは硬いプラスチック製で、夏などしばらく読書でもしようものなら寒くて震え出すほどの冷房で、客の回転率を上げています。管理型権力では、服従動機を経由せずに、いつの間にか人々を従わせることに成功していることになります。
そして生権力が規律訓練型のものから、管理型のものへと転換しつつあるということは、ドゥルーズをはじめとする多くの論者によってかねてより指摘されてきました。どうしてその転換が起こったのか? また、管理型権力が奪うものは何か? こうした疑問こそが、大澤真幸氏がこの本で考察している問題です。
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太陽王と呼ばれたルイ14世を描いた映画は、『王は踊る』という題名です。王の権力は、王の身体が人々の前に華々しく現前することによってこそ確保されました。見られることが最大の威信を担ったわけです。そして、「体育は、舞踏がかつてヨーロッパの文化のなかに占めていた位置に、舞踏を代替するものとして出現したのではないか」(p.83)という三浦雅士氏の議論から、大澤氏は次のような考察を導きます。
体育とはもともとは兵士を鍛えるためのものでした。体育の身体は、きわめて多数の身体を一挙に捉えうるような視線に対して、自らが見られることを想定しています。理論上それは無限遠の上空に存在します。かつては「踊る王」という具体的な存在が威信を集めたわけですが、今では抽象的な視線によって見られることを想定しているわけです。これは大澤氏の独特な用語で言えば、「第三者の審級」の抽象化と言えるでしょう。
「第三者の審級」とは、ごく簡単に言ってしまえば、信仰者にとっての神のようなものです。それがなぜ抽象化していくのかと言えば、「第三者の審級」の力が及ぶ範囲を拡大していこうとすれば、次第に普遍的なものにならざるを得ないからです。新興宗教が力を発揮できる範囲はごく限られています。普遍的な世界宗教になるに従って、「第三者の審級」の示す規範は緩いものにならざるを得ないのです。ユダヤ教はユダヤ民族のための宗教であり、その他の民を救うことは考えませんでした。キリスト教では人類すべてが対象ですが、普遍的になった分、ユダヤ教にあった律法は廃棄されることになるわけです。
規律訓練による権力は、個人を主体化します。つまりパノプティコンの奥に隠れた見えない視線を感じ続けることで、「第三者の審級」が良しとするような価値観へと自分を導くように誘導されるわけです。「第三者の審級」の示す規範が失われた管理型権力ではどうでしょうか? 管理型社会では個人情報は知らないうちに収集され、特定の局面のみの断片的な情報によって個人は判断されます。こうした状況下では主体は断片化されていきます。こうした状況を大澤は「客観的な主体化」と呼んでいます。管理型権力によって収集された情報は、ある人が「客観的に何であるか」を示しているというわけです。アマゾンによって収集された情報が、それをもとにお薦めの本などを提示されると、自分の求めていた本だったような気持ちになってしまうようなものです。また、先日のPC遠隔操作事件では誤認逮捕されたなかには、やってもいない犯行を告白する者も出ました。PCに証拠が残っていると客観的な証拠を突き付けられると、そんなことも起こりうるわけです。このあたりが、管理型権力がわれわれから奪っていく何かであり、大澤氏それを偶有性に関連させて考えているようです。
かなり思い切って一直線にまとめましたが、こんな粗略な要約では到底この本を読んだことにはならないでしょう。新書とは言え、ここでされている議論は多岐に渡るし、内容もやさしいものではないからです。いつものようにかなりアクロバティックな論理展開と感じる部分もあるのですが、何かしら学ぶべきものが多いのも大澤氏の本なのだと思います。
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