『未成年』 命を救うのは信仰なのか法律なのか
2015.12.20 20:26|小説|
『贖罪』や『甘美なる作戦』などのイアン・マーキュアンの最新作。

主人公のフィオーナは60歳を間近にした女性裁判官です。中心となるエピソードはエホバの証人の輸血拒否にかかる裁判ですが、ほかにも様々な事例が登場します。結合双生児の分離手術では、片方を生かすために、片方を死に追いやることをフィオーナは決断しなくてはなりません。ユダヤ教の両親の離婚に関する裁判では、子供が父親に引き取られれば厳格なユダヤ共同体のもとで生活することになり、母親に引き取られれば宗教的には比較的自由な環境に置かれることになります。フィオーナはその都度世俗社会で合理的と認められるような判決を出しています。
裁判官も人間ですからごく普通の生活もあります。この小説はそうした部分も描かれています。フィオーナの旦那は「7週間と1日」もの間セックスレスだという理由を挙げて、ほかの女とのエクスタシーを求めて家を飛び出していったりもします。フィオーナはこれまでの夫婦関係について振り返ることにもなります。「7週間と1日」というのは結合双生児についての判決を出してからの日数であり、どちらかを殺す決断をしなければならないフィオーナはそうしたことに励む気分ではなかったわけで、裁判官という仕事は他人の人生を大きく左右する部分があるだけにやっかいそうです。
※ 以下、ネタバレもありますのでご注意ください!
エホバの証人の輸血拒否では日本でも子供が死亡する事件があったようです。この小説のアダムという少年はあと少しで18歳になるところです。彼は白血病であり、ただちに輸血をしなければ重大な結果を招くことが予想されています。さらに舞台となるイギリスの法律では18歳以下の未成年には自己決定する能力がないものとされます。アダムの家族はエホバの証人の教えを信じていて、両親は輸血を拒みますが、病院側は輸血をすることで治療をもっと有効なものにしたいと考えます。アダム自身も表面上は輸血を拒否しているようですが、その言葉が両親からの押し付けになっているのかもしれないわけで、フィオーナはギリギリの選択を迫られることになります。子供の福祉というものを優先させるのか、信仰のほうを選ぶのか。
フィオーナの決断は当然のものと思われます。世俗社会で何が合理的と考えられているか。それに照らせばそうならざるを得ないわけです。しかし結末は悲劇に終わります。裁判制度あるいは法律の限界なのかもしれません。フィオーナは普遍的と思われる価値を基準にして裁くわけですが、その価値が本当に普遍的なものかはあやしいわけです。結局は普遍的だと思っている価値を押し付けているということでは、アダムの両親が特定の宗教を押し付けるのと変わりがないのかもしれません。特定の宗教を信じることはその宗教を認めない人にとっては理解できない部分がありますが、合理的な考えがそっくり宗教の代わりになるわけではないことも確かなのでしょう。
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主人公のフィオーナは60歳を間近にした女性裁判官です。中心となるエピソードはエホバの証人の輸血拒否にかかる裁判ですが、ほかにも様々な事例が登場します。結合双生児の分離手術では、片方を生かすために、片方を死に追いやることをフィオーナは決断しなくてはなりません。ユダヤ教の両親の離婚に関する裁判では、子供が父親に引き取られれば厳格なユダヤ共同体のもとで生活することになり、母親に引き取られれば宗教的には比較的自由な環境に置かれることになります。フィオーナはその都度世俗社会で合理的と認められるような判決を出しています。
裁判官も人間ですからごく普通の生活もあります。この小説はそうした部分も描かれています。フィオーナの旦那は「7週間と1日」もの間セックスレスだという理由を挙げて、ほかの女とのエクスタシーを求めて家を飛び出していったりもします。フィオーナはこれまでの夫婦関係について振り返ることにもなります。「7週間と1日」というのは結合双生児についての判決を出してからの日数であり、どちらかを殺す決断をしなければならないフィオーナはそうしたことに励む気分ではなかったわけで、裁判官という仕事は他人の人生を大きく左右する部分があるだけにやっかいそうです。
※ 以下、ネタバレもありますのでご注意ください!
エホバの証人の輸血拒否では日本でも子供が死亡する事件があったようです。この小説のアダムという少年はあと少しで18歳になるところです。彼は白血病であり、ただちに輸血をしなければ重大な結果を招くことが予想されています。さらに舞台となるイギリスの法律では18歳以下の未成年には自己決定する能力がないものとされます。アダムの家族はエホバの証人の教えを信じていて、両親は輸血を拒みますが、病院側は輸血をすることで治療をもっと有効なものにしたいと考えます。アダム自身も表面上は輸血を拒否しているようですが、その言葉が両親からの押し付けになっているのかもしれないわけで、フィオーナはギリギリの選択を迫られることになります。子供の福祉というものを優先させるのか、信仰のほうを選ぶのか。
フィオーナの決断は当然のものと思われます。世俗社会で何が合理的と考えられているか。それに照らせばそうならざるを得ないわけです。しかし結末は悲劇に終わります。裁判制度あるいは法律の限界なのかもしれません。フィオーナは普遍的と思われる価値を基準にして裁くわけですが、その価値が本当に普遍的なものかはあやしいわけです。結局は普遍的だと思っている価値を押し付けているということでは、アダムの両親が特定の宗教を押し付けるのと変わりがないのかもしれません。特定の宗教を信じることはその宗教を認めない人にとっては理解できない部分がありますが、合理的な考えがそっくり宗教の代わりになるわけではないことも確かなのでしょう。
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