『ブッダが考えたこと』 プラグマティックなブッダ?
2016.01.26 19:28|宗教|
著者の宮元啓一氏はインド哲学と仏教学を専門にしているとのことで、インド哲学の流れのなかでブッダの教えを考えていく本になっています。

仏教は経典も無数にあったりして難しいところがあるように思えますが、著者によればブッダの考えていたことはとても整合性があって、体系的に完成されたものだったようです。
否定的な意味ではなく、とてもプラグマティックなのです。哲学論議をしなかったのはそちらの方面に進むとキリがないということもありますし、それよりも苦しみから脱却することのほうを重視したからです。「五蘊」という教えがありますが、著者によればブッダが言ったのは、身体や心は本当の自己ではないということになります(五蘊非我)。ブッダは「本当の自己とは何か」といった形而上学的な質問には沈黙をもって対応したわけで、「無我」の教えは後世の人たちが付け加えたものになるようです。
ブッダは「自己は存在しない」とは語っていないとのことで、やはり現実的な教えであるようです。というのも「自己は存在しない」と言われても、やはり自分というものは現にあるように感じられるわけですから(もちろん無我の教えそのものは、修行としては有効であるとも著者も認めています)。
個人的に興味深く読んだのは、輪廻に関しての箇所です。ちなみにブッダはインドでその教えを説いたわけで、輪廻というものは大前提となっているようで、ブッダが輪廻を認めなかったという説は、インド哲学の専門家である著者からすればあり得ない話となるようです。
輪廻という考えは因果応報思想に支えられていますが、「因果応報思想が、元来、再死を恐れるあまり生み出されてきたもの」に注目すべきだと著者は言います。アーリア民族が持ち込んだヴェーダの宗教では、人間は皆、死ぬと死者の国に赴き、そこで永遠に生きると考えられたようです。そこでは現世肯定で快楽主義の考えが生まれます。現世は楽しい、そして、あの世はもっと楽しい。そんな意識があったようです。しかし、それが時代を経るごとに永遠の快楽が失われることへの恐怖と感じられ、再死しないで済む方法として因果応報思想が誕生してきたようです。
このあたりの論理が僕にはちょっと理解しにくいところがありました。著者も言うように日本人は「再生の繰り返し」に共感を覚えます。一方でインド人は「再死の繰り返し」のほうに恐怖があるようです。以前、『輪廻転生 〈私〉をつなぐ生まれ変わりの物語』という本を取り上げたときも、輪廻型の「生まれ変わり」が特殊なものに感じられたのですが、ここでも日本人とインド人の考え方の違いが表れているように思えます。個人的にはそのあたりがとてもおもしろく感じました。日本人は輪廻というものに関して本当には理解していないのかもしれません。
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仏教は経典も無数にあったりして難しいところがあるように思えますが、著者によればブッダの考えていたことはとても整合性があって、体系的に完成されたものだったようです。
ゴータマ・ブッダが関心を集中したのは、現実的にわれわれの身心を苛む輪廻的な生存という苦しみが、何を原因にして生じ、またどうすればそこから最終的に脱却できるのかということであった。
つまり、ゴータマ・ブッダは本質論的(形而上学的)ではなく、いわゆる実存的な地平で因果関係を追及したのである。すると、いわゆる実存的な地平で因果関係を確認することができるのは、経験的に知られる事実のあいだにおいてのみだということは、自明のこととなる。
こうして、ゴータマ・ブッダは、論理空間(ヴィヤヴァハーラ)から、可能的でしか当面はないと考えられる事態を排除し、現実的な事態(=事実)のみを残したのである。こうした立場のことを、ふつう、経験論という。
そこで、ゴータマ・ブッダは、経験的な事実を出発点としない、いわゆる形而上学的な哲学論議への関与を拒否し、弟子たちにも強く戒めた。(p.100‐101)
否定的な意味ではなく、とてもプラグマティックなのです。哲学論議をしなかったのはそちらの方面に進むとキリがないということもありますし、それよりも苦しみから脱却することのほうを重視したからです。「五蘊」という教えがありますが、著者によればブッダが言ったのは、身体や心は本当の自己ではないということになります(五蘊非我)。ブッダは「本当の自己とは何か」といった形而上学的な質問には沈黙をもって対応したわけで、「無我」の教えは後世の人たちが付け加えたものになるようです。
ブッダは「自己は存在しない」とは語っていないとのことで、やはり現実的な教えであるようです。というのも「自己は存在しない」と言われても、やはり自分というものは現にあるように感じられるわけですから(もちろん無我の教えそのものは、修行としては有効であるとも著者も認めています)。
個人的に興味深く読んだのは、輪廻に関しての箇所です。ちなみにブッダはインドでその教えを説いたわけで、輪廻というものは大前提となっているようで、ブッダが輪廻を認めなかったという説は、インド哲学の専門家である著者からすればあり得ない話となるようです。
輪廻という考えは因果応報思想に支えられていますが、「因果応報思想が、元来、再死を恐れるあまり生み出されてきたもの」に注目すべきだと著者は言います。アーリア民族が持ち込んだヴェーダの宗教では、人間は皆、死ぬと死者の国に赴き、そこで永遠に生きると考えられたようです。そこでは現世肯定で快楽主義の考えが生まれます。現世は楽しい、そして、あの世はもっと楽しい。そんな意識があったようです。しかし、それが時代を経るごとに永遠の快楽が失われることへの恐怖と感じられ、再死しないで済む方法として因果応報思想が誕生してきたようです。
このあたりの論理が僕にはちょっと理解しにくいところがありました。著者も言うように日本人は「再生の繰り返し」に共感を覚えます。一方でインド人は「再死の繰り返し」のほうに恐怖があるようです。以前、『輪廻転生 〈私〉をつなぐ生まれ変わりの物語』という本を取り上げたときも、輪廻型の「生まれ変わり」が特殊なものに感じられたのですが、ここでも日本人とインド人の考え方の違いが表れているように思えます。個人的にはそのあたりがとてもおもしろく感じました。日本人は輪廻というものに関して本当には理解していないのかもしれません。
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